、キスしたのね。若い綺麗な芸子さんと。襟に白粉が着いてるわ」
……だが彼女はこの頃では、もうそんな事も云わなくなった。
私が戸外《そと》で何をしようと、気に掛けようとはしなかった。
これは一体どうしたのだろう? 何が彼女を変えたのだろう?
彼女は丸髷が好きであった。いつかそれを王女《クイン》髷に変えた。
家に居たがる女であった。ところがこの頃では用もないのに、戸外へばかり出たがった。
驚くべきことが発見された。彼女は実に僅かな間に、奇蹟的に美しくなり、奇蹟的に気高くなった。
「美粧倶楽部へでも行くのだな。恋人でも出来たのではあるまいか? 恋人が出来ると女という者は、急に美しくなるものだ」
私の心は痛くなった。憂鬱にならざるを得なかった。
14[#「14」は縦中横]
仰天するようなことが発見された。ある夜私は戸外から帰って来た。彼女は私の書斎にいた。細巻|煙草《たばこ》を喫《ふ》かしていた。煙草を支えた左手の指に、大きなダイヤが輝いていた。
「その指環は?」と私は云った。
私の知らない指環であった。
彼女は無言で指を延ばした。そうしてじっと[#「じっと」に傍点]ダイヤに見入った。その燦然たる鯖色の光輝を、味わっているような眼付きであった。二本の指で支えられ、ピンと上向いた煙草からは、紫の煙りが上っていた。一筋ダイヤへ搦まった。光りと煙り! 微妙な調和! 何と貴族的の趣味ではないか! 彫刻のような彼女の顔! 今にも唇が綻びそうであった。モナリザの笑い? そうではない! 娼婦マリヤ・マグダレナの笑い!
私は瞬間に退治られた。
数日経って松坂屋から、一揃いの衣裳が届けられた。それは高価な衣裳であった。帯! 金具! 高価であった。誂えたはずのない衣裳であった。私の知らない衣裳であった。
そこで私は懇願した。
「話しておくれ、どうしたのだ?」
ただ彼女は微笑した。例のマリヤの微笑をもって。
「おい!」と私は威猛高になった。
「処分したな、贓物を!」
「貴郎《あなた》」と彼女は水のように云った。
「贓物ですって? 下等な言葉ね」
「売ったのだろう! 白金《プラチナ》を!」
「貴郎」と彼女は繰り返した。
「約束でしたわね、訊かないと云う」
彼女は私を下目に見た。彼女は貴婦人そのものであった。
大詰の前の一齣が来た。
円頓寺街路《えんとんじど
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