来たのである。
「それにしても老女は何者であろう。そしていったい何んのためにいつまでも鼓を打っているのであろう」
彼は不思議に思いながら厨《くりや》から外へ出て行った。そして老女へ近付いた。彼の眼に真っ先に映ったのは、名匠の刻んだ姥《うば》の面のような神々《こうごう》しい老女の顔であった。その次に彼の眼に付いたものは彼女の持っている鼓であった。漆黒《しっこく》の胴、飴色の皮、紫の締め緒を房々と結んだやや時代ばんだその鼓は生命《いのち》ない木製の楽器とは見えず声のある微妙な生物《いきもの》のように彼の瞳に映ったのであった。
「ご老女」と麟太郎は呼びかけた。しかしその後はどう云ってよいか継ぎ穂に困《こう》じて黙ってしまった。すると老女は仮面《めん》のような顔をわずか綻《ほころ》ばして笑ったが穏《おだや》かな調子でこう云った。
「どうぞあなたのお芳志《こころざし》をお施こしなされてくださいまし」
「容易《たやす》いことです、進ぜましょう」麟太郎は袂《たもと》へ手を入れたが鳥目《ちょうもく》などは一文もない。まして家の内を探したところで金のありよう筈がない。彼は当惑して赤面したが焚きかけの飯の事を思い出してにわかに元気付いて云うのであった。
「鳥目《ちょうもく》とてはござらぬが、饑饉《ききん》のおりから米飯がござる。それもわずかしかござらぬによって俺《わし》の分だけ進ぜましょう」――急いで厨《くりや》へ駈け込んで湯気《いき》の上がっている米飯を鉢へ移して持って来た。すると老女は頷《うなず》きながら穏かな声でこう云った。
「私は欲しゅうはござりませぬ。そこに仆れている饑えた人にそれを差し上げてくださいまし」
見ればなるほど往来の上に子を負った女が仆れている。子供の方は死んでいるらしい。麟太郎は女の側《そば》へ行って鉢の飯を膝の前へ置いてやった。それから老女を振り返って見たが、もうそこには老女はいなかった。遙か離れた往来の人混みの中から鼓の音が、餓鬼道の巷《ちまた》に彷徨《さまよ》っている血眼《ちまなこ》の人達の心の中へ平和と慰安と勇気とを注ぎ込もうとするかのように穏かに鳴るのが聞こえては来たが……。
麟太郎はふとした動機からその時まで懸命に学んでいた支那の学問を投げ捨てて当時流行の蘭学を取ったがこれが開運の基となって彼の世界は展開された。彼はこんな順に立身した。
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