はズンズン海上を翔けて行く。
ジョン少年は櫂《かい》を操《あやつ》りドンドン小舟を進ませる。空は晴れ、海は凪《な》ぎ、大変|長閑《のどか》な日和《ひより》である。
舟はズンズン進んで行く。
長い間漕ぎ続けた。振り返って見ると、チブロン島は低く海上へ浮かんでいる。海鳥が無数に飛んでいる。
烏はどこまでも翔《か》けて行く。
今の時間にして一時間余りジョン少年は漕ぎに漕いだ。その時二つの大岩が行く手の海に現われた。伝説にある浮き岩である。岩のくせに水に浮いている。そうして互いに衝突《ぶつか》り合い、恐ろしい泡沫《しぶき》を揚げている。その泡沫は雪のように四辺《あたり》の海を濛々と曇らせ、行く手をすっかり蔽い隠している。そうして互いに衝突《ぶつか》り合う音が雷のように響き渡る。
烏は二つの浮き岩の間を電光のように翔け過ぎた。
そうして背後《うしろ》を振り返ったが、ジョン少年を呼ぶかのように、「コー」「コー」と啼いたものである。
ジョン少年は躊躇《ちゅうちょ》した。岩の間を乗り切ることが困難《むずかし》そうに思われたからだ。で彼は乗り切るのを止めて、一つの岩の周囲《まわり》を廻り先へ出ようと考えた。しかしその間に烏の行方《ゆくえ》が見失われたらどうしよう。それこそ虻蜂捕らずである。
「勇気、勇気、勇気が大事だ! 冒険、冒険! 冒険に限る! 構うものか乗り切ってしまえ!」
ジョン少年は決心した。で櫂《かい》に力をこめ、岩と岩とが衝突《ぶつか》り合い、やがて離れた一髪の間にスーッとばかりに突っ切った。とたんに左右から二つの岩が轟然と憤怒《いかり》の叫びを上げ、動物《いきもの》のように衝突《ぶつか》って来たが、わずかに舟尾《とも》に触れたばかりで舟も人も無事であった。
烏はと見れば行く手の空を悠々と向こうへ翔けて行く。安心をしたジョン少年は、さらに櫂に力をこめ先へ先へと漕いで行く。
こうして半時間ばかり経った時一つの小島が行く手に見えた。近附くままによく見ると、子供達が沢山遊んでいる。それは非常に美しい島で、虹を空から持って来たように種々《いろいろ》の花が咲いている。赤、白、黄、紫、藍、黄金色! 空色をした花もあれば桃色をした花もある。花間《はなま》では兎が飛んでいる。可愛い緑色の小さい森! そこでは栗鼠《りす》が啼いている。森から流れ出るリボンのような小川! 水が銀色に光っている。沢山の子供達は手を繋《つな》ぎ合い輪を作って踊っている。そうして彼らは唄っている。
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いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、
夢の島、絵の島、お伽噺《とぎ》の島、
いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、
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ジョン少年はしばらくの間、漕ぐ手を止めて見惚《みと》れていた。
「皆な楽しそうに遊んでいるよ。僕も一緒に遊びたいな」
また歌声が聞こえて来る。
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いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、
花を摘んで差し上げましょう、
ここにはお乳が流れています、
甘い蜜もございます。
蜂はブンブン、蝶はヒラヒラ、
夢の島、絵の島、お伽噺《とぎ》の島、
いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい。
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唄いながら子供達が踊っている。足が揃って上へあがる。手が揃って前へ出る。輪がグルグル渦を巻く。伴奏の役目は小鳥である。
「ああいいなあ」とジョン少年はその子供達が羨《うらや》ましくなった。
「上陸して一緒に遊ぼうかしら」
で、櫂《かい》へ力をこめ、小舟を島へ着けようとした。その時ハッと気が付いて行く手の空を眺めて見た。彼を導く大烏の姿が遙か彼方《むこう》の空の涯《はて》を今にも消えそうに翔けている。
「あ、しまった! 見失ってしまう!」
ジョン少年は吃驚《びっくり》したが、急いで舟をグルリと廻すと、島を見捨てて漕ぎ出した。尚後ろからは子供達の唄う楽しそうな歌声が聞こえて来る。それは誘惑の声である。しかしもはやジョン少年は心を乱そうとはしなかった。ただ一心に漕ぎ進んだ。
随分久しく漕いだので大分腕が疲労《つか》れて来た。その時行く手に陸が見えた。そうして烏はその陸を目がけ静かに静かに舞って行く。
ようやく岸へ漕ぎつけて見ると、烏の姿がどこにも見えない。
「あ、とうとう見失ってしまった」ひどく落胆したものの、またこうも思って見た。「つまり烏はこの陸地まで、僕を案内して来たのかもしれない。物語の中の宝物は、この陸のどこかにあるのかもしれない」
岸の木立ちへ藤蔓で舟をしっかり繋《つな》いでから、ジョン少年は上陸した。そうして奥の方へ歩いて行った。
二十三
間もなく一つの河へ来た。河岸に乞食《こじき》が転がっている。老い衰えた土人乞食で、手足は垢黒み衣裳は破れ、悪臭がプンプン匂って来る。とても穢《きたな》い乞食であったが、ジョン少年を呼び掛けた。
「小僧、小僧、ちょっと待て!」
ジョンは吃驚《びっくり》して立ち止まった。
「俺は病気で歩くことが出来ぬ。俺を背負って河を越せ!」横柄な不遜な物云いである。
ジョン少年はムッとしたが、相手が年寄りの病人だと思うと、怒鳴り返すことも出来なかった。かえって乞食が気の毒になった。
「病気なの? 気の毒だなあ。ああいいとも背負ってあげよう」こう云いながら背を向けた。と、乞食は立ち上がり、痩せ涸れた体を凭《も》たせかけたが、見掛けに似合わず目方がある。
「ううん、畜生、ヤケに重いなあ」呟き呟きジョン少年は河を向こうへ越して行った。
すると乞食は負われながらむやみと悪態を吐《つ》くのであった。
「ヤイ薄野呂《うすのろ》! 間抜け野郎! そんな方へ行くと溺れるぞ! そっちは淵だ! 深い淵だ! ヤイヤイ小僧どこへ行くんだ! そんな方へ行くと躓《つまず》くぞ! そこには大きな岩があるんだ! 何んというこいつは馬鹿なんだろう! 真っ直ぐに行きな真っ直ぐに。そうだそうだ真っ直ぐにな。おやこの餓鬼は横へ曲がったな。餓鬼のくせに云う事を聞かぬ。根性曲がりの悪垂《あくた》れ小僧め、ほんとに小憎らしい小僧じゃアねえか!」などと憎々しく怒鳴るのであった。
ジョン少年は何んと云われても、相手になろうとはしなかった。「可哀そうな乞食だよ。あんまりこれまで苦労したので気が狂ったに違いない」――こう思えば腹も立たない。で黙って進んで行く。
やがて河を渡り切るとジョン少年はほっとした。そこで乞食《こじき》を背中から下ろし帽子を取ると挨拶した。
「お爺さんさようなら。僕はこれで失敬するよ」
「まあお待ち」と乞食は云った。「お前はほんとに感心な子だね。よくお前は忍耐したね。俺はほんとに感心したよ。お前はきっと成功するよ。それは俺が保証してもいい。……さあ、ご褒美にいい物を上げよう」
こう云いながら左右の手を、ジョンの眼の前でパッと開いた。黒い色をした石の玉が二つ掌《てのひら》に載っかっている。
「これはな」と老人は説明した。「世に珍らしい武器なのだよ。だからこれさえ持っていれば、大概の危難は遁《の》がれることが出来る。恐ろしい敵が襲って来ていよいよ命があぶなくなったら、こいつをその敵へ投げ付けるがいい。まず最初に一つ投げる。それからもう一つ投げ付ける。そうしたらお前は助かるだろう。ではさようなら、健康《たっしゃ》で行くがいい」
乞食はそのまま行ってしまった。
ジョン少年は乞食の後をしばらくじっと[#「じっと」に傍点]見送っていたが、奇妙な黒い二つの玉を上衣《うわぎ》のポケットへ蔵《しま》い込むと、足に任せて歩き出した。すると遙かの行く手に当たって一軒の家が現われた。もうこの時は夕暮れでジョン少年は疲労《つか》れてもいたし酷《ひど》く腹も空いていたので、その家へ行って、宿も乞い食物も貰おうと決心した。
邸の造作《つくり》も異様であったが、永く手入れをしないと見えて、門は傾むき屋根は崩れ凄まじいまでに荒れていた。――見たこともない家造りである。
「ご免! ご免!」
と案内を乞うた。誰も答える者がない。ジョン少年は途方に暮れてぼんやり門口に佇《たたず》んだが、
「もし叱られたら謝まるばかりだ。構うものかはいってやれ」
――そこは英国の冒険少年、大胆に家の中へ入って行った。すると大きな部屋があり、一人の男が寝ていたが、ジョン少年の姿を見るとムクムクと体を起き上がらせた。そうしてジョンを睨み付けた。
「貴様は誰だ!」と大きな声で、突然その人は怒鳴ったものである。不思議なことにはその人は、土人の言葉は使うけれど、人種は土人ではなさそうである。
「怪しい者ではありません」ジョン少年は急いで云った。
「道に迷った子供です」
「いやいや貴様は泥棒だろう! また聖典を盗みに来たな!」不思議な男はまた怒鳴った。「貴様は蛇使いの一味だろう※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「そんな者ではありません。僕は英国の少年です。ジョン・ホーキンと云う子供です」
「嘘を云え悪者め! が、子供などは相手にしない。サッサとここを立ち去るがいい。そうして蛇使いの婆さんに云え、早く聖典を返せとな!」
「僕、蛇使いの婆さんなどに一度も逢ったことはありません」
「ああ睡い、俺は寝る」云ったかと思うと、その男は肘を曲げてゴロリと寝た。とすぐ鼾《いびき》が聞こえ出した。
二十四
ジョン少年は呆気《あっけ》に取られ、少しの間立って見守っていた。
その時一人の少年がツカツカと部屋の中へはいって来た。年|恰好《かっこう》はジョンぐらいである。やはり土人ではなさそうである。
「おや君はどなたです?」その少年は審《いぶか》しそうに訊いた。その言葉は土人語である。
「道に迷った子供です」
「ああそうですか、それはお気の毒……」その少年は優しく云った。親切そうな少年である。
「君は土人ではありませんね?」ジョン少年はまず尋ねた。
「ええ僕らは日本人です。……君も土人ではありませんね?」
「そうです僕は英国人です」
「英国人? ああそうですか。で名前は何んと云うのです? 僕の名は大和日出夫」
「僕の名はジョン・ホーキン」
「英国というとどの辺です?」
「遠くの遠くの海のあなたです」
「そこから一人で来たのですか?」
「どうして一人で来られるものですか。お父さんや仲間の者と、海を越えて来たのですよ」
「その人達はどうしました?」
「土人と戦争をしています。……ところでここはどこなのです? 大陸ですか島ですか?」
「チブロン島の裏海岸です」
「オヤやっぱりチブロン島ですか」ジョン少年は吃驚《びっくり》したが、「日本というのはどんな国です?」
「日本は東洋の君子国ですよ。そうして人間は利口ですよ。尚武《しょうぶ》の気象に富んでいます」
「チブロン島から近いのですか?」
「いいえ非常に遠いのです」
「いつこの島へ来られたのです?」
「ちょうど、今から五年ほど以前《まえ》に」
「何んのために来られたのです?」
「隠された宝庫を探すためにね?」
「やはり君達もそうなんですか」ジョン少年は眼を円くしたが、「そうして宝は見付かりましたか?」
「もう一息というところでとうとう失敗したのですよ。……つまり聖典を盗まれたのでね」
「その聖典とはどんなものです?」
「漢文で書かれた本ですよ」
「漢文というと支那の文章ですね」
「ええそうです支那の文章です。……その聖典には、益《ため》になる話が数限りなく書いてあるのです。……大事な大事な本なのです」
「いったい誰が盗んだのです?」
「蛇使いの婆さんがね」
「その婆さんはどこにいます」
「地下の世界にいるのだそうです」
「そんな世界があるのですか?」
「ええあるということですよ」
「何故他人の本なんか盗んだのでしょう?」
「宝の在所《ありか》が書いてあったからです」
「隠された宝と婆さんとは何か関係でもあるのですか?」
「その婆さんが守り主なのです。その隠された宝のね。で、婆さんは本さえ盗んだら宝は安全だと思ったので
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