救われた命、助かった心
これより少し以前《まえ》のことであるが、桔梗屋の主人《あるじ》佐五衛門は、行燈を提げ、帳場の辺をウロウロしていた。
(娘は?)
とこのことばかりを思っていた。
(どこへ行ったろう? 何をしているのだ! こんな時に、こんな物騒な時に!)
廊下の方から、部屋部屋から、二階からも階下《した》からも、足音、悲鳴、呶声、罵しり声、物を投げる音、襖障子を開閉《あけたて》する音が、凄まじく聞こえて来た。
――五人の湯治客が囲炉裡|側《ばた》で、片耳のない武士の話をしていると、表戸を蹴開き十数人の捕り方が混み入り「三国峠の権という盗賊この家に潜みおる、縛《から》め取るぞ」と叫び家探しにとりかかった。裏口からも捕り方は侵入したらしく、その方からも足音や呶声が聞こえて来た。
それはほんの寸刻前《いましがた》のことで、今はもうこの店の間には、捕り方も湯治客もいなかった。捕り方は奥へ走り込み、湯治客たちは散々《ちりぢり》に逃げたからであった。
「娘は?」
暴風《あらし》の吹いた後のように、帳場格子は折れ、硯箱はひっくりかえり、薬罐は灰神楽《はいかぐら》をあげてい
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