の部屋そのものであった。
彼女がまだ娘であった頃、同藩――沼田藩の槍奉行、斉藤源太夫の息子源之進と結婚することになり、婚礼の席へ臨んだ。ところが源之進が余りの醜男《ぶおとこ》なのに厭気がさし(長いこれからの浮世を、こんな男と一緒にくらさなければならないとは。厭だ厭だ)と思い詰め、生《き》一本の娘の、前後《あとさき》見ない感情からその席を遁《の》がれ、実家へ逃げ帰り、居合わせた若党の井口権之介というのを連れ、夢中で家出し、駕籠で山越えをし、この猿ヶ京の、この桔梗屋の、この別館《はなれ》の、この部屋で一夜を明かしたが……
(その因縁の部屋へ泊まるとは)
松乃は眼を開き、いまさらに部屋の中を見廻した。辺鄙《へんぴ》の山の温泉《ゆ》の宿は、部屋の造作《つくり》も装飾《かざり》も以前《むかし》と変わらなかった。天井の雨漏りの跡さえそのままであった。
(主家の娘を誘惑《そそのか》したというかどで、権之介は、お父様に片耳を剃がれて放逐されたが、その後どうしたことやら。……噂によれば、身を持ち崩したあげく、恐ろしい大賊になったということだが……三国峠の権という大賊に。……それもこれも元はといえば妾《わたし》の不注意から。……あの人には罪はなかったのだ)
「痛い!」
と松乃は思わず悲鳴をあげた。耳の痛みが烈しくなったからである。
実父《ちち》の将左衛門から、久しく逢わないから逢いたい、婿殿ともども逢いに来るようにと伝言《ことづて》があった。そこで松乃は良人と一緒に里帰りの旅へ出たのであったが、昨夜、浅貝《あさかい》の旅宿《やどり》あたりから耳が痛み出し、次第に烈しくなって来た。今は堪えられないほどに痛むのであった。
(片耳を切られた権之介の怨み! それで妾の耳が!)
こんなことも思われた。
(恐ろしい因縁の部屋で、痛む耳の手あてをするとは)
ゾッとするような思いもした。
そっと良人を見た。妻の過去の過失など知らないで、ただただ松乃を愛している内記は、気づかわしそうに妻の顔を見詰め、
「痛むか、困ったのう。この辺には医者はなし……」
と云った。
主屋の方でのけたたましい物音は、いよいよ烈しくなった。
と、渡り廊下をこっちへ走って来る足音がした。
内記は思わず刀を引きつけた。
あわただしく襖をあけて走り込んで来たのは僕《しもべ》の三平であったが、
「大変でございます。お捕り物で! ……昨夜、沼田様のお牢を破りました三国峠の権という大泥棒が……」
「あッ」
と松乃は起き上がった。
「三国峠の権が?」
「はい。……破牢したばかりか、……奥様、旦那様、決してお驚きなさいますな、……それに致しても何んと申してよいやら……その権という泥棒、奥様の実家《おさと》、五百枝様のお屋敷へ忍び入り、将左衛門様の片耳を切り取り……」
「あッ」
と松乃は立ち上がった。
「お父様の片耳を! ……権が!」
「はい。……そうしてここへ、この猿ヶ京へ逃げ込みましたそうで。……それで沼田様からお捕り方が出……」
「権! 権之介よ! ……無理はない、さあ妾の耳も切っておくれ! ……みんな妾が悪かったからじゃ! ……切って怨みを晴らしておくれ! ……おお痛む! 痛む痛む耳! いっそ切られた方が! ……あげまする、この耳あげまする! 権よ権よ切っておくれ! ……昨夜から痛む訳じゃ! お父様がお切られなされたのじゃもの! ……同じ時刻から痛み出した耳! ……親の苦痛が娘へ伝わったのじゃ! ……それもこれも権の怨み! ……権よ、さあこの耳を切っておくれ!」
松乃は廊下へ走り出た。
救われた命、助かった心
これより少し以前《まえ》のことであるが、桔梗屋の主人《あるじ》佐五衛門は、行燈を提げ、帳場の辺をウロウロしていた。
(娘は?)
とこのことばかりを思っていた。
(どこへ行ったろう? 何をしているのだ! こんな時に、こんな物騒な時に!)
廊下の方から、部屋部屋から、二階からも階下《した》からも、足音、悲鳴、呶声、罵しり声、物を投げる音、襖障子を開閉《あけたて》する音が、凄まじく聞こえて来た。
――五人の湯治客が囲炉裡|側《ばた》で、片耳のない武士の話をしていると、表戸を蹴開き十数人の捕り方が混み入り「三国峠の権という盗賊この家に潜みおる、縛《から》め取るぞ」と叫び家探しにとりかかった。裏口からも捕り方は侵入したらしく、その方からも足音や呶声が聞こえて来た。
それはほんの寸刻前《いましがた》のことで、今はもうこの店の間には、捕り方も湯治客もいなかった。捕り方は奥へ走り込み、湯治客たちは散々《ちりぢり》に逃げたからであった。
「娘は?」
暴風《あらし》の吹いた後のように、帳場格子は折れ、硯箱はひっくりかえり、薬罐は灰神楽《はいかぐら》をあげてい
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