頬冠りを取り、手拭いで体を拭き拭き、
「それにしても進一さんて人は幸福《しあわせ》だなア、お蘭ちゃんのような可愛らしい人を嫁さんにするなんて。……おいお蘭ちゃん、俺らお前さんに餞別《はなむけ》するぜ。どうかまア今のような綺麗な裸体《はだか》の心で、進一さんに尽くしてくんなと。……男なんてもなア女のやり方一つで、どうにでもなるんだからなあ」
男は手早くお蘭の着物を纒《まと》った。
「アッハッハッ、この風で捕手《いぬ》どもの眼を眩《くらま》しとっ[#「とっ」に傍点]走るのよ! ……おかげで湯にもはいれた。……心と一緒に体も綺麗になったってものさ」
お蘭は驚愕した大きな眼で男の顔を見詰め、
「あ、あんたの耳! ないわないわ、一つしかないわ!」
男はこの時もう階段を上がっていたが、振り返ると云った。
「三国峠の権は片耳なのだよ」
三国峠の権が女装をし頬冠りをして湯殿から飛び出し、廊下づたいに主屋の方へ走り出した時には、沼田藩の捕り手たち数十人が、この温泉宿《ゆやど》へ混み入って、部屋部屋を探し廻っていた。上野《こうずけ》、下野《しもつけ》、武蔵《むさし》、常陸《ひたち》、安房《あわ》、上総《かずさ》、下総《しもうさ》、相模《さがみ》と股にかけ、ある時は一人で、ある時は数十人の眷属《けんぞく》と共に、強盗《おしこみ》、放火《ひつけ》、殺人《ひとごろし》の兇行を演じて来た、武士あがりのこの大盗が、破牢して逃げたということだけでも、沼田藩は、捕り手組子を押し出して捕縛に大わらわにならなければならないのであったが、そればかりでなく、三国峠の権は、破牢するとその夜、藩の蔵奉行五百枝将左衛門の屋敷へ押し入り、主人将左衛門の片耳を切り落とし、「汝の娘、松乃《まつの》の嫁入り先、長岡の牧野家の槍奉行、坂田方へ押し入り、松乃の片耳を切り取るぞよ」と威嚇して立ち去ったのであった。一藩が震駭《しんがい》し、数十人の捕り手を繰り出し、逃げ込み先の猿ヶ京の温泉《いでゆ》をおっとり囲んだのは当然といえよう。
権は今廊下を走って行く。と、行く手に四、五人の捕り方が現われた。権は素早く廊下添いの部屋の襖を開けて飛び込んだ。
「それ」
と捕り方たちは走って来た。襖をあけて覗くと、若い女が俯伏しに寝て、両袖で顔をかくしていた。
「女だ」
「恐いことはないぞ。アッハッハ」
と、捕り方たちは走り去った。権はしばらくじっ[#「じっ」に傍点]としていたが、やがて起き上がると廊下へ出、主屋の方へ小走り出した。廊下が丁字形になっている所へ来た。左へ曲がったとたん、二人の捕り方にぶつ[#「ぶつ」に傍点]かった。顔を見られた。
懺悔の妻
「曲者!」
と一人の捕り方が正面から組付いて来た。
「わッ」
と捕り方は悲鳴をあげて仆れた。脇腹から血が流れ出ている。
「汝《おのれ》!」
ともう一人の捕り方が横から躍りかかった。権の匕首《あいくち》が捕り方の咽喉へ飛んだ。権は、仆れてノタウチ廻る捕り方を見すてて走った。
「お頭《かしら》アーッ」
と呼ぶ声がした。行く手の降り口から、囲炉裡|側《ばた》で、片耳のない武士の話をしていた絹商人が、顔を出していた。
「七五郎か、他の奴らは?」
「さっきまで囲炉裡側で、五人揃って、お頭のおいでになるのを待っていましたが、捕方《いぬ》どもが飛び込んで参りましたのでチリヂリバラバラ、この家のあちこちに……」
「集めなけりゃアならねえ。……一つに集まって三国を越して越後境いへ!」
主屋と離れ、崖の中腹に、懸け作りになっている別館《はなれ》が一棟、桜や椿や朴《ほお》の木に囲まれ、寂然として立っていた。主屋と別館《はなれ》とをつないでいるものは、屋根を持っている渡り廊下で、真珠のような月の光が、木の間を洩れて廊の欄干へ、光の斑を置いていた。別館の一間に寝ているのは、耳を病んでいる松乃であった。枕もとには水を張った小桶が置いてあり、その横には良人《おっと》の内記《ないき》が、心配そうにして坐っていた。
この優しい親切な良人は、寝もしないで妻の介抱をしているのであった。
「だんだん騒ぎが烈しくなるが、何んだろう?」
長岡藩の槍奉行、坂田内蔵之丞の総領内記は、妻が眠るようにと、わざと燈を細めた行燈を無心に見詰め、耳をかしげながら呟いた。
松乃は、痛む左の耳を上にし、反対の頬を枕にうずめ、夜具の襟から、蒼白の顔を覗かせ、眼を閉じていた。さっき、鋭い呼笛《よびこ》の音《ね》がし、つづいて主屋の方から、悲鳴や、襖、障子を蹴ひらく音や、走り廻る音が聞こえて来、僕《しもべ》の三平|翁《じいや》が、あわただしく様子を見に行ったがまだ帰って来ない。――これらのことも心にかかっていたが、しかし彼女には、もっと心にかかることがあった。
それは、こ
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