猿ヶ京片耳伝説
国枝史郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)掌《てのひら》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)その時|背後《うしろ》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)駕籠の、たれ[#「たれ」に傍点]の
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痛む耳
「耳が痛んでなりませぬ」
と女は云って、掌《てのひら》で左の耳を抑えた。
年増《としま》ではあるが美しいその武士の妻女は、地に据えられた駕籠の、たれ[#「たれ」に傍点]のかかげられた隙から顔を覗かせて、そう云ったのであった。
もう一挺の駕籠が地に据えられてあり、それには、女の良人《おっと》らしい立派な武士が乗っていたが、
「こまったものだの。出来たら辛棒《しんぼう》おし。もう直《じき》だから」
と、優しく云った。
「とても辛棒なりませぬ。痛んで痛んで、いまにも耳が千切れそうでございます」
と女は、武士の妻としては仇《あだ》めきすぎて見える、細眉の、くくり頤の顔をしかめ、身悶えした。
「このまま沼田まで駕籠で揺られて参りましては、死にまする、死んでしまうでございましょう」
「莫迦《ばか》な、耳ぐらいで。……とはいえそう痛んではのう」
と武士は、当惑したように云った。
ここは、群馬の須川在、猿ヶ京であった。
三国、大源太、仙ノ倉、万太郎の山々に四方を取り巻かれ、西川と赤谷《あかや》川との合流が眼の下を流れている盆地であった。
文政二年三月下旬の、午後の陽《ひ》が滑らかに照っていて、山々谷々の木々を水銀のように輝かせ、岩にあたって飛沫《しぶき》をあげている谿水《たにみず》を、幽《かす》かな虹で飾っていた。散り初めた山桜が、時々渡る微風に連れて、駕籠の上へも人の肩へも降って来た。
「やむを得ない」
と武士は云った。
「舅殿がお待ちかねではあろうが、そう耳が痛んでは、無理強いに行くもなるまい。……今夜一晩猿ヶ京の温泉宿《ゆやど》で泊まることにしよう」
「そうしていただきますれば……そこで一晩手あてしましたら、……明日はもう大丈夫」
と女は云って、遙かの谿川の下流、山の中腹のあたりに、懸け作りのようになって建ててある温泉宿《ゆやど》、桔梗屋の方を見た。
「聞いたか」
と武士は、駕籠の横の草の上へ腰をおろし、※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]み箱を膝の上へのせている、忠実らしい老僕へ云った。
「今夜はここの温泉宿へ泊まるのじゃ。そちも皺のばしが出来るぞ」
「有難いことで」
と僕《しもべ》は云った。
「越後の長岡から三国を越しての旅、おいぼれの私には難渋でございましたが、一晩でも湯治が出来ましたら元気が出ることでございましょう」
猿ヶ京と云われているだけにこの辺には猿が多く、それが木の枝や藪の蔭などから、この人たちを眺めていた。丘をへだてた竹叢《たけむら》のほとりから、老鶯《ろうおう》の啼《な》き音《ね》が聞こえて来た。
「痛い! ま、どうしてこう痛むのだろう!」
女は駕籠の中で突っ伏した。
「駕籠屋、桔梗屋へやれ」
と武士は、あわてたように云った。
お蘭は、月を越すと、相思の仲の、渋川宿の旅舎《はたごや》、布施屋の長男、進一のもとへ輿入ることになっていた。今夜も彼女は新婚の日の楽しさを胸に描きながら、帳場格子の中で帳面を調べている父親の横へ坐り、縫い物の針を動かしていた。結《ゆ》い立ての島田が、行燈の灯に艶々しく光り、くくり頤の愛くるしい顔には、幸福そうな微笑さえ浮かんでいた。
土間をへだてた表戸はもう下ろされていたが、昼の間に吹き込んで来た桜の花が、敷居の下に残っていて、長い薄白い雪の筋かのように見えていた。
「こんな気の毒な男があるのですよ」
という声が聞こえた時、両耳の辺ばかりにわずかの髪をのこしている、お父親《とう》さんの禿《はげ》た頭が上がり、声の来た方へ向いたので、お蘭もそっちへ顔を向けた。
猿ヶ京にたった一軒だけ立っている湯宿、この桔梗屋は、百年以上を経た旧家だといわれていたが、それはこの店の間の板敷が、黒檀のように黒く艶を出しているのでも頷《うなず》かれた。
板敷には囲炉裡が切ってあり、自在鉤にかけられてある薬罐《やかん》からは、湯気が立っていた。炉を囲んでいるのは五人の湯治客で、茶を飲み飲みさっきから話しているのであった。
「こんな気の毒な男があるのですよ」
と云ったのは、その中の、絹商人だという三十八、九の、顔に薄菊石《うすあばた》のある男であった。
「お侍さんですがね、若い頃に、あるお屋敷へ、若党として住み込んだそうで。ところがそこに、若い綺麗なお嬢様がおありなされたが、同藩のお奉行様のご子息と婚約が出来、いよいよ行かれることになった
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