酵させ、生を死と変じさせ、光を吸って生きている。丁度女の心のようだ。……女よ! さらば歌を聞け。(と「暗と血薔薇」の歌を歌う)
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短い命が暗《やみ》に沈む、
紅い薔薇の嘲笑《あざわらい》
罪が楽しい戯《たわむれ》と、
思う時の人心《ひとごころ》
それ暗の赤き薔薇。
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(歌い終わりし時、白髪は一変して黄金色となり、白衣は紫の袍と変ず)幻《まぼろし》は夢と現《うつつ》の間より来る、誘惑は美より来る、Fなる魔法使いは、美と誘惑と幻とを、一つに集めた夕月より来る。(間)夕月の光が窓を通って、俺の姿を照らしている。俺の姿を見ろ! Fなる魔法使いの姿を見ろ! (と女子を手にて招く、女子は両手を前に差し出し、足をつま立てて進み来る。その状あたかも、先刻公子が語りたる、死せる領主の妻の誘惑に向かいし時の姿に似たり)女よ今こそ、お前の恋しい人を見ることが出来るだろう。紫の袍を着た、銀の竪琴を携えた――。北の海辺の荒れたる丘で、血薔薇の花をお前にくれた、一人の男はこの俺だ、俺の眼《まなこ》を見ろ! 魔法の光に輝いている――。(竪琴を鳴らし)眠った人の覚めぬ間に、我等は罪悪を犯さにゃならぬ。(間)罪悪には燈火はいらぬ。(間)人のつけた燈火《ともし》の光は、人間の罪を照らすには、あまりに明るすぎるようだ。(突然)外に出よ月がある。月の光は青白く罪そのものの光のようだ。(女子を見て)女よ俺に従《つ》いて来い、Fなる魔法使いに従いて来い。(と竪琴を弾きながら、そろそろと正面の出口に向かう。女子は姿勢を崩さずに、その後に従う。Fなる魔法使いは一同を眺め、冷笑的の口調にて)愚者《おろかもの》の騎士、音楽家、領主の君のおひとよし[#「おひとよし」に傍点]、いつまでも明るい殿堂の中で、一人の女の不義する間、心地よい眠りをつづけていろ!(大きく笑い)領主の君の恋する女は、勇み進んで不義の砦へ進んで行く。白い肌が血に染まり、一度も吸われぬ唇は、千度《ちたび》百度《ももたび》けがされよう。(再び大笑)熟睡の間、楽器をかなで、節操の讃歌《ほめうた》でも歌っていろ! (大声)さあ早く一曲弾け! (一同各自の楽器を鳴らす。楽器の鳴りおる間に、Fなる魔法使いと女子とは、正面の口より退場す。燈火一時に消え、月光のみ青く窓よりさし入る。暗黒の中にて楽器は暫時鳴り渡る)
(幕――)
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第二場
領主の館の裏庭。同じ夜。
一面の罌粟《けし》畑、月光それを照らす。左方に領主の一子(公子)の住む高殿聳つ。その奥は断崖にして海に連なる。右方には音楽堂の姿背景《バック》にて現わる。Fなる魔法使いは領主の館に向かい竪琴を弾じつつ後《うし》ろ退《さが》りに罌粟畑を歩み出ず。一間ほどを距《へだ》てて女子、両手を前に差し出し足をつま立てて歩く、眠れるが如き様子)[#「様子)」はママ]
Fなる魔法使い 大理石の牢獄を遁《の》がれ出て、潮の国へ自由が歩む。潮の国には人魚がいる。(笑う)敗けた歌女《うたいて》が海の底でお前の来るのを待っている。(女子を見詰め)女よ! 溺れ行く、弱き者よ。執念の蛇の血は、心地よき流れとなりて、俺が弾ずる琴の糸からあふれ出て、お前の心へ忍び入る。心のかなめ[#「かなめ」に傍点]はかき乱され、肉は熱く戦慄《おののい》て……お前の顔は笑み崩れる。(大声)さあ女よ笑って見せろ! (女子声なく笑う)お前の笑《えみ》を得んがため、諸国の憐れな令人達は、大理石の館へ集った。そして今そこで眠っている。(笑う)笑は罌粟の畑をすぎて、青海原へ沈み行くのに、何も知らぬ領主の君。(間)さても白いお前の肌(と女をしげしげと眺め)ローマの朝の白露が野茨の花へ降ったようだ。鴻の鳥の胸毛のようだ。建国の第一の朝に、汚れを知らぬ谷の洞から、湧き上がった霧のようだ。(やや悲しげに)それが今や汚される。(罌粟畑を眺め)この広い血の海で、その白無垢が赤く染まる。(竪琴を眺め)どのように銀の調《しらべ》が、血と暗《やみ》とを喜ぶだろう――。女よ再び暗と血薔薇の呪詛を受けよ。(と短嬰ヘ調をかき鳴らす。琴と共に「暗と血薔薇」の歌を歌う)
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暗がわが身を取りかこむ、
裸身なれど恥らわじ。
……………………
抱く男のやわ肌を
燃ゆる瞳にさがさばや
罪が巣くいし血薔薇とて、
恋の生身を刺すとかや、
暗なれば血は見えずして。
……………………
[#ここで字下げ終わり]
(この歌と共に、女子は弱々しく歩む。Fなる魔法使いはなお歌い弾く)
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一夜の情にほだされて、
大理石なる清き身を
罪に渡すも男ゆえ。
砒素の歌……………
真珠に盛りし鴉片《あへん》さえ
女子の恋はうつせまじ。
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(歌切れると共に女子は疲れ果ててFなる魔法使いの肩にすがる。魔法使いは女子を片手に介《かか》えて海を眺めて彳む。突如高殿よりバイオリンの音聞こゆ。調《しらべ》は短ホ調、歌は「死に行く人魚」の歌)
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幻の美しければ
海の乙女の
あわれ人魚は
舟を追う。
波を分けて舟を追う。
月は青褪めぬ、
屍に似たる水の色。
[#ここで字下げ終わり]
(歌と共に高殿の窓開らけて、公子の姿現わる)
Fなる魔法使い (公子の姿を眺め、歌に耳を澄まし)あの歌は以前どこかで散々聞いた歌だ。奈落に沈む悲しげの音が短ホ調へしみこんでいる。あれを歌う男は生きてはいまい。あれを聞く女も死ぬだろう。(間)あれは死の歌だ。(女子もその歌に耳を澄ませて、高殿を見上ぐ。高殿の上にて公子、罌粟畑を見下して弾き且《か》つ歌う)
[#ここから2字下げ]
赤き帆は
追えども遠く離れ行く(ふっと切れ、直につづく)
船の中なる美しき影。
[#ここで字下げ終わり]
(女子はFなる魔法使いより離れて、高殿の方に歩み寄る、Fなる魔法使いはそれを凝視し)
Fなる魔法使い あの歌の力強い響きは巨人のようだ。眼に見えぬ大いなる影が、あの歌の陰にひそんでいて、歌う彼を助けている。それがあの歌を助けている。(間)俺の弾く「暗と血薔薇」の一曲には、邪悪《よこしま》の恋が歌われ、不義の慾望が吟じてあるが、あの短ホ調の一節には、正しい嘆きが篭っている。恋しさを恋する純なる情と、遂げねば死なんと願う心が、三筋の糸の顫《ふる》えから流れ、砒素のような烈しさで、女心をかき乱し、迷いの霧から招いている。(力強く)誰のために誰が作った歌だろう。
公子 (歌い且つ弾く)
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ひきとめ難き恋心、
恋心、
遂げねばならぬ恋心、
[#ここで字下げ終わり]
(女子、高殿の下まで行き、公子を見上げ)
女子 若様!
公子 (聞こえぬものの如くに歌う)
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水の都の人魚は、
人のなすなる恋の道
[#ここで字下げ終わり]
女子 若様、若様!
Fなる魔法使い (楽器を烈しく掻き鳴らし)あの歌の鋭い神経が、迷った女を醒《さま》そうとする。(突然)俺の敵だ! 死を教えるようなあの歌の清い意味が俺の敵だ。(間)幸福たらんとする乙女、既に幸福なる人妻を、思わぬ邪道に導き行くこのFなる魔法使いの、銀の竪琴の淫《みだ》らの音が、あの清き音に敗けてはならぬ。(突然)敗ける時は俺の恥だ! 千万人に試みて、千万人に成功した我が誘惑の「暗と血薔薇」の一曲が、罌粟畑の血の海でどれだけ音高く歌われるか聞け。(と「暗と血薔薇」の曲を歌う)
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暗《やみ》に咲ける緋文字の悪よ
悪の手に培《つちか》われ
暗に咲ける罪の花。
[#ここで字下げ終わり]
女子 (高殿の下よりFなる魔法使いの方に歩み寄り、その肩にすがり)貴郎《あなた》は誰れなの?
Fなる魔法使い (女子を介《かか》え)北へ行こう北へ行こう……。北の浜辺で、お前へ血薔薇の花を与えた若い男は俺だ。
女子 その人は桂の冠をかむっておりました。貴郎にはそれが無い。
Fなる魔法使い (頭に手をやり)桂の冠は、明日の競技に勝った時、俺の頭に載っている。
女子 貴郎は誰なの?
Fなる魔法使い お前の恋しい男じゃないか。
女子 貴郎は誰なの?
Fなる魔法使い Fなる魔法使い! (と女子を介えて海辺へ行かんとす。高殿より再びバイオリンの音聞こゆ。それと共に、「死に行く人魚」の歌を歌う)
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人魚の恋はとげられて
はかなく消えし赤き帆や
あわれ幻。
[#ここで字下げ終わり]
(女子はまた、Fなる魔法使いの肩より離れて、高殿を見上げる)
女子 若様!
公子 (歌う)
[#ここから2字下げ]
屍には白き藻草を着せかけん、
瞳の閉じし面には、
かぐろき髪の幾筋と
鈴蘭の花をのせて置く。
[#ここで字下げ終わり]
女子 若様、私は此処におりまする、若様!
公子 (歌う)
[#ここから2字下げ]
死んで行くなる乙女子の
水の都の人魚へ……
[#ここで字下げ終わり]
女子 (高殿の下へ馳せ行き、物狂わしく)若様、若様、私は此処におりまする。
公子 (答えなく歌う)
[#ここから2字下げ]
声もとどかぬ水底の
水の都の同胞《はらから》は、
[#ここで字下げ終わり]
女子 ああ未《ま》だあんな悲しい歌を歌っていらっしゃる。若様!
公子 (歌いつづけ)
[#ここから2字下げ]
行方知れずの人魚を
浮藻の恋になぞらえて、
はかなきものと語り合う。
[#ここで字下げ終わり]
女子 (泣きつつ)若様、若様、若様よう。
公子 (ふっと歌を止めて、すかし見しが、直ちに復《ま》た歌う)
[#ここから2字下げ]
わだつみなれば燐の火の
屍を守ることもなく、
珊瑚の陰や渦巻の
泡の乱れの片陰に……
[#ここで字下げ終わり]
(声も楽器も、不意に途絶ゆ。女子は高殿の柱に取りつき)
女子 若様! そんな悲しい歌はお止《や》め遊ばしな。あの、私は此処におりまする。
公子 (身を階下にかしげ)誰れだ!
女子 私でござります。
公子 誰れだ!
女子 私よ……若様!
公子 (青き燭の火を差し出す、女子はその火をあおぐ)
女子 若様!
公子 (すかし見て)おお貴女は! ……どうして今頃そんなところに……おいでなされます。
女子 あの恐ろしい老人が、私を連れ出したのでござります。銀の竪琴で歌を歌い……。
公子 (せわしく)それが誘惑です。
女子 若様。
公子 その老人とは、紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、騎士姿の音楽家ではござりませぬか。
女子 いいえ、白い衣を着た、白髪の老人でござります。桂の冠はかむっておりませぬ。
公子 その老人はどこにいるのです。
女子 (振り返り)あれ、あすこに立っておりまする、月の光をあびて立っておりまする。
公子 (すかし見て)ああ、私にもよく見えます。(驚き)あの男だ、あの男だ、――ああ悪魔!
女子 老人でござります。白髪の老人でござります。
公子 紫の袍を着て、銀の竪琴を持っている。若い美しい音楽家だ! (一寸躊躇し)ああそれだのに、桂の冠をかむっていない。
女子 いえいえ白い衣を着た老人でござります。
公子 あの男だ、母を殺したあの男だ。
女子 いえいえ老人でござります。(と振り返り)あれ、もう、静かに歩いて行きまする。
公子 勝ち誇った騎士のように、ゆっくりと歩いて行く。――紫の袍が煙のように、銀の竪琴が星のように……。(Fなる魔法使いは、無音にて花陰へ隠れ去る。奥にて大勢の人声。やがて真先に領主と従者、後につづいて騎士、音楽家、左右より現われて女子の方を見る)
(幕――)
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第三場
翌日。一場と同じ領主の館の一室、窓より海と音楽堂と見ゆ。室内には窓に近くただ一台の寝台あり。夜。先夜の如く月明らかなり。
女子は寝台に腰をかけ体を斜にして音楽堂を眺む。使女ABの二人はその左右に立ち、同じく音楽堂を眺む。静。――館内の人々は皆、音楽堂に出で行ける後)[#「行ける後)」はママ]
使
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