しませぬ。
女子 いえいえ、それは……。
公子 お聞き下さい! 私は屹度、貴女を救ってごらんに入れますぞ!
女子 いえいえ、それは……はい、それはとうてい無駄のことでござります……。私の心は紅いこの薔薇の花から、離れることは出来ませぬ……。暗《やみ》の中にて、罪悪の手に培われた血薔薇の花!(と紅き薔薇に唇をあつ)
公子 (窓外の月を眺め)あの月がひとまず沈み、やがて再び現われる頃、貴女は私の所有《もの》です。
女子 明晩のことでござりまするか。
公子 明晩の今頃は、月桂樹の冠と共に、貴女は私の所有です。ああ明晩私の弾くバイオリンの曲は、死んだ母と、私ばかりが知っている「死に行く人魚」の歌でござります。あの歌には母の思いが篭っています。(間)あの歌を明晩は音楽堂で弾くのでござります。そして競争に打ち勝つのでござります。そして貴女を私の所有とするのでござります。(力強く)私の弾く短ホ調のバイオリンの曲は、あらゆる総ての楽器に打ち勝つでござりましょう。
(奥にて大勢の笑声、諸々の楽器の音……やがて燈火を携えし、以前の使女二人、左の口より入り来り、公子に丁寧に礼をなし、女子に向かい)
使女A お嬢様はまだ此処においででござりましたか。
女子 若様と明晩の競技のお話をしていたところ。(やや小声にて)そして、あのお方は奥においでではなかったかえ。
使女B 浅黄色の袍の人、萌黄色の袍の人、蛋白石よりも涼しい白い色の袍の人は幾人もおいでになりますが、紫の袍の人は一人もおいでではござりませぬ。
使女A 真鍮に銀の鋲を打った冑、金襴で錏《しころ》がわりに装飾《よそお》った投頭巾《なげずきん》、輪頭形《りんどうがた》の冑の頂上に、雄猛子の鬚をつけた厳《いか》つい冠もの[#「冠もの」に傍点]、そのような冠もの[#「冠もの」に傍点]を冠《かむ》った方は数多く見えましたが、桂の冠をかむった方は一人もお見えなされは致しませぬ。
使女B そして銀の竪琴を持った人は一人おいでなされましたが、そのお人は、白髪の老人でござりました。
女子 ……白髪の老人……。(と不思議そうに考える。――奥にて盛んなる笑声と、楽器の音)
使女A 私共二人は若様とお嬢様とをお迎えに来たのでござります。お殿様が、若様とお嬢様とを、お客様の方々へ、紹介《ひきあわせ》るによって、連れて参れと申したのでござります。
使女B お殿様もお客様も、皆お待ちかねでござりますれば、早く御出で下さるよう。
公子 (頷きて)おお、それはそうありそうなこと。(女子に向かい)明日の贈物《かずけもの》の貴女のお顔を皆の者にお見せ下されて、贈物がどのように美しく気高く値《あたい》あるかをお知らせなされませ。(女子の手を取り)そしてその贈物を屹度手に入れて見せると云うて、天地の神々は愚か、母の魂にまで誓った一人の若者が、この館にいることをも皆の者にお知らせなされて下さりませ。(二人の使女に向かい)俺は残念ながら、明晩の競技までは誰にも面会は致さぬ決心故、さようお父上に申しくれい。(大いなる決心を見せ)あの月が沈むまで(と窓外の月を眺む)、死に行く人魚の歌を(と高殿を見)、あの高殿で弾くことにしよう。(と階上に昇り行く)
使女A さあお嬢様、皆様のお待ちかねの、酒宴の席へ参りましょう。
使女B そのお美しい御様子を、風流の方々へお見せ遊ばしませ。(と左右より手を取る。奥にて笑声)
女子 (取られし手を払い)私は奥へは行きはせぬ。
使女A それなら、どう遊ばすのでござります。
女子 (月を眺め)月の光に照らされて、この室にいつまでもいるつもり。
使女B それでもお殿様やお客様の方々が、お待ちかねでござりますのに。
女子 待つ人の心と、待たるる人の心とが、離ればなれなら致し方がないではないかえ。
使女A 紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った方がおいでなされぬ故、そのように申すのでござりましょう。
女子 そうだと云うても、お前方は笑ってくれてはいけぬぞえ。(と面をかくす)
使女B 笑いなどは致しませぬが、使いに参った私どもが、お殿様やお客様へ、何んと御返事を申し上げてよいやらと、それに当惑致します。
女子 いえいえ、少しも云い憎いことはない故に、ありのままを申しておくれ(使女二人は困却せる風にて立ち尽くす。奥にて大勢の笑声。間もなく大勢の足音。――童四人と使女四人とに燭を持たせ、領主及び大勢の騎士、音楽家左の口より出場)
領主 (微酔《ほろよい》)使いの者の遅いのは、また嬢が苦情を申して、早速は来ぬのだろうと察した故、我等の方より出て参った。(騎士、音楽家を返り見、女子を指しながら)これ見られい、明日の勝利の贈物は、このように美しい。この美しさを方々《かたがた》は何んと形容なさるかな、宝玉の名でも花の名でも、色の名でも形容は出来ますまい。
白髪の音楽家 (群衆の最後の列にあり、紅顔なれど白髪、手に銀の竪琴を持つ。それをかき鳴らして進み出で)お嬢様の美しさは、この銀の竪琴の音のようでござります。(一同の騎士、音楽家驚きてその人を見る。その人は静々と場の中央に進む。一同はその音楽家を左右に取りかこむ。女子と老人と向かい合って立つ)
領主 嬢の美しさが銀の竪琴の音のようだとは、当意即妙の讃辞《ほめことば》。(と一同を見)方々もさように覚しめすか、如何でござる。(一同の騎士、音楽家は一斉に頷き笑い、互いに語り合うて各自の楽器を鳴らす。その音、場に充《み》つ。女子は少しく進みて老人を見る。知らぬ人なれば直《ただ》ちに視線をそらして左右の騎士音楽家を見廻し、情人はおらずやと尋ぬれど無し。失望して無音)
領主 (一同に向かい)嬢は機嫌が悪いと見えて、方々に何の挨拶もしない。嬢には時々このような時がある。これは嬢に悪い影がさしていて、時々その影が心をくらますからでござる。
白髪の音楽家 僕《やつがれ》がお嬢様のお機嫌を直してお見せ申しましょう。
領主 いやいやそれは、無駄のことと思われるが。
白髪の音楽家 僕はこの銀の竪琴でどのような悪い影でも追いしりぞけることが出来まする。
領主 (疑わしげに、その音楽家を眺め)その銀の竪琴に何かの呪《まじない》でも籠っていると云うのでござるかの。
白髪の音楽家 世の中の不思議と云う不思議は、皆この銀の竪琴に籠っていると申しても過言ではござりませぬ。(間)これはFなる魔法使いの持っていた竪琴でござります。
領主 Fなる魔法使いとは、どのような魔法使いでござるかの。――紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、若い騎士姿の音楽家ではござらぬか。
白髪の音楽家 Fなる魔法使いは、国々の北から南へ旅をして歩く、音楽家で、「暗と血薔薇」の曲を上手に弾きまする。
女子 (熱心に進み出で)「暗と血薔薇」の曲を上手にお弾きなされますと。
領主 (同じく熱心に)その魔法使いは、今どこ[#「どこ」に傍点]にいるのでござるかの。
白髪の音楽家 (口調ある朗吟的の言葉にて)レモンの花の咲く南の国の人々が、夢よりも虹よりも果敢《はかな》い歓楽にふけっている中に、暗と血薔薇が芽を吹いて、温室の中の子胞よりも生々と、罪悪の香を漲らせます。(間)夕暮の神の白い素足が後園の階段へ下りて来る時、殿堂の姫君達は夜の衣をひきまといて、密かに寝所を遁《のが》れ出で、湖水の面に漂っている、ゴンドラへ乗り込みましょう。そこで罪ある歓楽は遂げられます。(間)姫君達が、そのゴンドラを立ち出でて再び寝所へ戻られた時、室の中には暗と血薔薇が歌っています。(間)恋人を知らず恋人を得んとも思わず、髑髏《どくろ》の盃を見るようなつれない[#「つれない」に傍点]女子でも。また尼寺の童貞でも、森の中の蛇の皮と、裸体祭の風流男《みやびお》とを百年の仇と思いつめるような、情《なさけ》知らずの乙女でも、櫛を折り、鏡を砕き、赤き色のあらゆる衣を引き裂いて、操を立てた若い後家《ごけ》でも、一度Fなる魔法使いの「暗と血薔薇」の音を聞けば、必ず熱い血が躍る。(と銀の竪琴をかき鳴らす)
女子 その「暗と血薔薇」の曲は、私の恋しい人が常々弾いた曲でござります。
白髪の音楽家 恋しい人は、光のように早く来るがまた影のように淡く消ゆるものでござります。(間)淡く消えた影の恋人も、暁の太陽のように、海を照らす探海燈のように、やがて何処《いずこ》からともなく、赤々と現われて参ります、(間)万年、千年、百年、十年。いやいやそのように遠い月日ではない。一年、一日、今宵の中に、その恋人は紫の衣で現われましょう。
女子 (前へ進み)あの紫の衣で現われてか。
白髪の音楽家 赤い色は血の色で、毒々しい罪の色。青い色は秘密の色。この二つの色を合わせた紫の色は、世界の乙女の好む色。この紫の袍を着て、Fなる魔法使いは現われましょう。
女子 そして「暗と血薔薇」を歌ってか。
白髪の音楽家 何かは存じませぬが、まずこのように掻き鳴らします。(と銀の竪琴をかき鳴らす)この銀の音を聞く時は、(凄惨たる音調と、命令的の口調)雄獅子も眠り砂漠の月も空に彳《たたず》む。夢遊病患者が夜の都会の大理石の道を、青い煙のようによろめき歩いても、やがて運河のほとりの岸で、打ち仆《たお》れて眠ります。(威圧的の強き口調にて)騎士も眠り領主も眠る。(立ち並びいる騎士、音楽家は、各自の楽器を介《かか》えしまま、床上に片膝をつきて眠る。領主は傍の寝台の上に仆れて眠る。使女や童はいつしか退場、従者は壁によりかかりて眠る)――醒めたる者は恋人同志の二人だけ!
女子 (なつかしげに)その恋人はどこにいるのでござります。
白髪の音楽家 (女子の言葉を聞かぬものの如く)短嬰ヘ調は地獄の音調でござります。――この音調の響く時、まず眠りが参ります。その次に死が参ります。(間)短嬰ヘ調を銀の竪琴に合わせて歌う令人は、全世界に唯一人ある(間)「暗と血薔薇」の曲を弾く、紫の袍を着た人だ。(この時より言葉の調子荒くなり、一層朗吟的となる)やさしき女よ。お前は間もなく、その悲しい歌を聞かねばならぬ。お前のなつかしむ恋人に逢う時は、その死の歌を聞く時だ。その死の歌を聞く時が、女よお前の一生で、最後の幸福が来る時だ。(間)悲しいこの歌の犠牲となった、世に美しい女の中には、一国の領主の妻もあった。領主の妻は、高い岩の頂きに住み、海の人魚に歌を送り、わが身を人魚に例《なぞら》えていた。……ああ実《げ》に死に行く人魚よ!(窓口に行き、音楽堂を眺め)悪しき紀念の音楽堂が、不貞の妻のために造られて、白からぬ女の霊魂を、何時まで彼処《かしこ》に止め置くのか。(領主を返り見)愚かなる領主の君! (女子はこの間に恍惚たる心となり、柱によりかかりて首を垂れる)再び罪と嘆きを呼ぼうとて、Fなる魔法使いを此処に召した。巡り来る、必然的の運命なれば致し方もあるまいが、(領主を見て)さりとては、うつけ者の領主の君! (また並びて眠れる騎士、音楽家を眺め)眠れば死んだと同様なるお前達! 大理石の邸宅が焼け、金剛石の腕輪が燃え、氷山の頂きに裸体の女が立っていても、また東洋の草や木が、ホライズンの彼方に見えて、巫人《みこ》の一群が丸き輪をなし、聖歌を歌いながら躍っていても、眠ったお前達には何も見えまい。(突然)神秘の曲が夢に入る。早く各自の楽器を鳴らせ。(一同無意識に楽器を鳴らす、その音、場に充《み》つ)地獄へ送る送別の音が、いと高々に鳴り渡っても、眼醒むる人は一人も無い。(女子を見て)野を行く柩のかけ[#「かけ」に傍点]衣《ぎぬ》が、麻で織られた白布でも、大理石の温槽《ゆそう》の中へ、流れて落つる雪どけ水[#「雪どけ水」に傍点]でも、お前の今の心のように、清いものは世にあるまいが、それが亡びようとしているのだ。しかし小鳥よ眼を醒すな、眼を醒さずに音を聞け! (と短嬰ヘ調の音をかき鳴らす)聞け聞け今の一曲が「暗と血薔薇」の序の一節だ。湧き狂い立つ罪の喜びが、どのように暗の中で笑っているか、その一曲では未だ知れぬ、小鳥よ眠りながら再び聞け。(とまた弾ず)暗は罪悪を醗
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