動き出した。錦《にしき》の蛇のように長く細く延びて行く。風が吹くからだろう。細く長く延びた雲は日の面を掠めるばかりにして、海の面へ垂れ下がって来る。(間)海は親切の心を持っているように、雲の影を残らずうつしている。(語を強め)海は寛大だ!
従者 (始めより領主の後方に謹んで彳《たたず》みいる、白髪、忠実質朴の風采、恐る恐る小さき声にて)御前様《ごぜんさま》。
領主 (聞こえぬ如く)海は寛大だ。海は聖人の心のように寛大だ! だがしかし、また法官のように冷やかで厳かで一点の偽りも許さない。仮面偽体虚飾の悪徳は、この海の鏡にうつった時、すっかり化けの皮が剥げてしまう。海は鏡だ。だからあるがままに空の色や光や形が映るのだ。
従者 御前様。
領主 (聞こえぬ如く)それにしても今日の海の美しく平和のことはどうだ。今までもかなり平和で美しい夕べはあったけれど、今日のように漣《さざなみ》一つ立たず、飛魚一つ躍らぬと云うことはなかった。今日の静けさは美人の死のようだ。
従者 (気づかわしげに)美人の死のようだ!
領主 (急に振り返り)何時《いつ》からおまえはそこにいたのか。
従者 はい、先刻からお呼び申
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