心持ちが昂奮していらっしゃります。神経が鋭くなりすぎていらっしゃります。
女子 昨夜のことは決して云うておくれでない。あれはほんの魔がさしたと云うものだから。
使女A 魔がさしたのはお嬢様ばかりではござりませぬ。あれほど沢山おいでなされた、騎士、音楽家の方々が、一人残らず片膝をついてお眠り遊ばし、無宙《むちゅう》で楽器をお弾きなされたと申すのは……。
使女B あれは皆様御一同へ魔がさしたと申すものでござりましょう。その中でもお嬢様が一番お美しくていらっしゃる故、それで一番深く魔者に見込まれたと申すものでござりましょう。
女子 あの晩私は、何時の間にお館を出て裏庭の罌粟畑へ行ったやら、私は少しも知りはせぬ。(間)ただ覚えていることは、白い髪の毛の音楽家が、銀の竪琴を弾いたこととその音が胸にしみ入ると、私はいつもになく……笑っておくれでない、私はいつもになく、淫《みだら》の心となったこと、丁度、一年前、北の浜辺で紅い薔薇の花を、紫の袍を着た、桂の冠をかむった、銀の竪琴を持った、若い美しい音楽家に貰った時のような心持ちとなったことを、いまだにはっきりと覚えている。
使女A 高殿でバイオリンを弾いていらっしゃった若様が、あの時、罌粟畑の中で今お嬢様のおっしゃったような、紫の袍を着て、桂の冠をかむり、銀の竪琴を持った、年若の美しい音楽家をごらんになったと申すことではござりませぬか。
使女B いえいえ、桂の冠だけはかむって[#「かむって」に傍点]いなかったと申すことでござります。
使女A ほんにそうだったと申すことでござります……。お嬢様はその音楽家をごらんなされはしなかったのでござりますか。
女子 私はそのような音楽家は見なかったけれど。(と考える)
使女B 白髪の老人だと云う音楽家が、その実、若い美しい、紫の袍の音楽家であったのではござりませぬか。
女子 私も、もしや、そうではなかったかと思うけれど、(間)いえいえ、そんな筈はない。もし老人の音楽家が私の思っているその人なら、私は屹度その人に連れて行かれたに相違ない。
使女A 連れて行かれそうになったのを、若様がおひきとめなされたと申すことではござりませぬか。
使女B 若様のお歌いなされた歌が、お嬢様のお耳へ聞こえたので、お嬢様は正気にお返りなされたと申すことではござりませぬか。
女子 若様のお歌いなされた「死に行く人魚」の歌が、あの時私の耳へはいって、私を正気づけたことは、ほんとに違いはないけれど。(小声にてその歌を歌う)
[#ここから2字下げ]
屍には白き藻草を着せかけん、
眼の閉じし面には
かぐろき髪の幾筋と、
鈴蘭の花をのせておく。
[#ここで字下げ終わり]
何故この悲しい歌が、私を正気に返らせたのか、私には解らない。
使女A あの怪しい老人の歌った厭な歌に、歌い勝ったと申すのではござりますまいか。
使女B 老人の歌った歌を、お嬢様は今でも覚えていらっしゃりますか、血が泣くような厭な厭な歌。
女子 (小声にて歌う)
[#ここから2字下げ]
短い命が暗《やみ》に沈む
紅い薔薇のあざ笑い、
罪が楽しい戯れと
思う時の人心、
それが暗の紅き薔薇。
[#ここで字下げ終わり]
ほんに厭な恐ろしい歌だこと。ただ歌ったばかりでも、深い深い罪の洞へ引きこまれるような気持ちがする。……だがまた何んだかなつかしい[#「なつかしい」に傍点]、恋しい思いの湧き起こるのは不思議じゃないか、丁度|人眼《ひとめ》を忍んで媾曳《あいびき》する夜の、罪と喜びとの融《と》け合った、その恋しさがこの歌の調子に似ているぞえ。――そしてこの歌は、どうしても嘗《まえかた》どこかで聞いたことがあるように思われる。
使女A 北の国の浜辺でお嬢様へ、紅い薔薇の花をお渡しなされた、若い美しい音楽家が、歌ったのではござりませぬか。
女子 (手を軽く拍ち)ほんにそう云えばその通り、たしかに其処で聞いたに違いない、魔法の光り物のようなあの人の瞳が、私の瞳を引きつけている間に、お歌いなされた歌に相違はない。どうしてお前はそれを知っているの。
使女A 知っているのではござりませぬ。何事でもお嬢様のお心を強くひきつけるいろいろの事件は皆、その人がなされる仕業のように思われますので、それでそう申し上げたまででござります。(女子黙して考える。二人の使女も黙す。月光やや暗くなり、海上に白き影浮かぶ)
女子 白いものが海の上に浮いて見える。音楽堂の下の岩陰からだんだん此方《こなた》へ動いて来る。
使女A 夜を遊ぶダイヤナと申す水鳥でござります。
女子 ダイヤナにしては形が大きすぎるじゃないか。私にはどうやらあれも[#「あれも」に傍点]、悪い兆《しるし》のように思われるぞえ。
使女B いいえ、水鳥の列でござります。ダイヤナはよくあのように列を
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