覚悟せる冷静を以て。されどまた最早躊躇する時にあらずと云うが如き態度にて)ヨハナーンや! さあ!(と云いつつ床上に落ちたる七弦琴を取り上げてヨハナーンに渡し)さあ。(塔をすかし。また扉の外へ耳をすまし)さあ!
少年 (七弦琴を受け取り)お姉様!
女子 (扉を見詰めつつ)歌ってあげましょう。「その日のために」を。……早く!
少年 お歌! (と七弦琴を構える)
女子 (絶えず、扉の外の物音に気をくばり)このお歌は。……(と機の方に近より)いつもこのお室でこの機を織りながら歌った歌ですよ。……ね、さあ、……今日は機の織り終《しま》いに、……歌の歌い終《しま》いに。……歌って織りましょう。(間)ヨハナーンや?
少年 お姉様!
女子 ようッく、ようッく歌の文句を覚えるんですよ。……(と女子機の台に腰を下ろし、梭に手をかける。この時、最後に残りし黄なる糸、中頃より切れて落つ)
女子 切れた! (立ち上がる)
(たちまち、上手の入口の鉄の扉、音なく開けて、影の如き人々の列、表情なき足どりを以て室内に入り来る。――真先には巨人立つ。(巨人もまた影の如き姿)この一列は室を廻りて下手に半円形を造りて、立ち並ぶ。巨人のみ中央に立つ。無音。鬼気。冷風。――然《しか》り冥府の如き冷たき光影! ヨハナーンは巨人の姿を見るや絶叫す)
少年 お姉様! あの人なの、あの人なの! 私を連れて来た人はあの人なの。(巨人を指し、後退《うしろじさ》りに退きしが、そのまま気絶して場内に仆《たお》る。姉は凍れる棒の如くに立つ)
巨人 (表情なき声)女よ! お前の祖先がお前を待っている。(と影の如き人々を振り返る。影の如き人々は一様に広き灰色の衣を左右に拡げ、女子を包むが如き風をなす。冷風衣の下より起こる)
巨人 彼等は塔に住む! 女よ! お前も塔へ行かねばならぬ。……女よ! 塔へ歩め!
(女子は無音にて首を垂れ、機より離れて巨人に近く進む)
巨人 (上手の扉を指さし)塔に歩め!
(巨人を先頭に影の如き人々列を造りて上手の口より出で去る。女子もまた影の人々の如く表情なき歩調にて列の最後より歩み行く。――女子この室より出でんとし、瞬間出口にて振り返り、仆れし愛弟を凝視す。その眼には無限の思慕の情涙と共に溢る……)
女子 (一声)ヨハナーン!
(この声と同時に仆れしヨハナーン飛び起きて姉の顔を見る。二人の視線正しく合す)ヨハナーン!
少年 お姉様! (姉の姿扉の彼方に消え、扉は音もなく刎《は》ね返りて堅く閉ず)
少年 お姉様! (馳せ行きて扉を擲《たた》く)お姉様! (ヨハナーンの呼び声のみ反響す)お姉様よう。……(泣く。泣く声のみ反響す)
お姉様! お姉様! お姉様よう!
(惨酷なる無音。――ヨハナーン再び気絶せるが如くに床上に仆れしまま動かず。その小さき体を青白き天井の光は照らす。三分間静。たちまち窓外より限りなき思慕の声にて幽《かすか》に幽にヨハナーンを呼ぶ)
女子の声 ヨハナーン!
(ヨハナーンふと心づきて頭を上げ室内を見廻す。――姉の姿見えず。自分の耳を疑うが如くなお四方を見廻す。――再び姉の声、此度はやや間近に聞こゆ)
女子の声 ヨハナーン!
(それに引きつづきて哀切の調べにて「その日のために」の歌を歌うが聞こゆ)
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美しき色ある糸の
機を織る人の一生
五色《いついろ》の色のさだめは
苧環《おだまき》の繰るにまかせて、
桧《ひ》の梭《さお》の飛び交うひまに
綾を織る罪や誉《ほまれ》や。
(その日のために――)
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(ヨハナーン暫時その歌に耳を澄ませしがにわかに飛び起き窓を見詰め)
少年 お姉様!
女子の声 (やや明瞭《はっきり》と)ヨハナーン! ヨハナーン! お歌をよーっく覚えるんですよ!
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五色《いついろ》の色の機織《はたお》り
一日を十年《ととせ》に数え
幾日《いくひ》経《へ》にけん。
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(ヨハナーンたちまち喜色を顔に浮かべ)
少年 お姉様だ! お姉様だ! あのお声はお姉様のお声だ! 窓の外にお姉様がいらっしゃる。
(と窓に馳せ行き、垂れし黒幕をいっぱいに開く。窓外の光景大きく観客に見ゆ。――塔は空の光に浮き出でて牢獄の如く凄惨として彳《たたず》み、塔の裾の水門もまた鮮やかなり。その水門の上には影の如き人々一列に並び、その前面には巨人立つ。巨人は灰色の衣の袖を上下して上流の小舟を招く。上流には小舟あり、ゆるゆると水門さして流れ下る。小舟の中にはヨハナーンの姉、白衣に包まれ白き百合の花に飾られて仰臥す。眼は見開けども瞳定まらず、ただ仄明るき空を見るのみ。空には小さき月ありて、雲間断なくこれを掠め、風絶えず雲を吹く。雲を吹くの風はまた塔を吹く、塔には悲愁の叫びあり。―
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