それは、若様の歌う筈の「死に行く人魚」の歌ではないのかえ。
従者 そうだと気づいたのは、それから後のことでござります。音の響いている間、歌の聞こえている中は、人々の心はただただ同情と涙と感激とにひたされていたのでござります。あああの時の室内の光景は、燭の光は赤からず白からず、薄物を通して空を見るように青褪めて、壁に天井に人々の影をうつしている。身動きもせぬ人々のその影は、いまにも沸き起こる悪魔の荒《あら》びの一瞬前の静寂《しずけさ》のように、神秘とも凄惨とも云おうようなく見えました。窓を通して外を見れば、月光に浮く海の水鳥、それが人魚の群のように、海の光をうけて流るる空の雲、それが幻の舟のようで。――風も吹かずそよぎもせず、外も内も森然《しん》とした状態《たたずまい》! 響くものは悲しみの歌ばかり、咽び泣く銀の竪琴の音ばかり、ただ音ばかりでござりました。
女子 その時若様は、どうしていたのかえ。
従者 曲を盗まれた若様は、化石のように立ちすくんで、壇の前にかたくなっておりました。
女子 立ちすくんでいるばかり! ええ、ええ、堅くなっているばかり!
従者 曲を盗まれた若様は、壇の前に立ちすくんで、自分の歌うべきその歌を、仇の口から聞いている。
女子 ええ、ええ、ただ聞いている。
従者 ただ聞いているばかり、どうすることも出来なかったのでござります。(間)いま少しお聞き下さいまし――このもの凄い静寂の後に、暴風よりも荒々しい喧騒の幕が開かれました。それは拍手と感嘆と、褒めののしる声でござります。数え知られぬ室内の人々は皆一様に老人の、神のような妙曲に対し、月桂冠を与えよと、叫び出したのでござります。――やがて数千の花輪花束が老人の身の周囲に飛びまわり、あらゆる楽器が一時に鳴り出し、それが皆賞讃の曲を歌い、最後の勝利者たる老人の名誉と幸福とを讃えました。そして絶えず人々は、月桂冠を彼に与えよと、ののしるのでござります。――たちまち、第三の鐘はつきならされ、高殿へは紅い灯が点ぜられました。――お嬢様! 貴女様の良人《おっと》となる人が、仮にもせよその時定まったのでござります!
女子 (身を震わせ)私の良人が!
従者 白髪の老人が、曲を盗んだ老人が、お嬢様の良人となるべき人でありますぞ!
女子 ええ、ええ!
従者 けれども悲劇の幕は、それからでございました。お嬢様! 若様の横
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