しておりました。
領主 そうか、一向知らなかった(とまた窓に向い)。どうだ今日の夕日の美しさは、建国の日のようじゃないか。お前の衰えた眼にも少しは立派に見えようがな。ほら、帆をなかば張った船が岩陰から現われた。帆は夕日で燃えるように赤く、水に映った様子が人魚そっくりだ。あれは人魚の舟だ。人魚の舟は地平線をめがけて進んで行く。日が沈み限《き》る頃、地平線の上へ行き着くだろう。沈む日と人魚の舟とが一緒になって、地平線の外へ消え失せる時、月がそろそろと昇り始めるのだ。綿帽子を取りはずされた嫁様のように恥かしさとかがやか[#「かがやか」に傍点]しさとで、どんなに月は下界の美貌に恍惚《うっとり》とするだろう。そして、月の秋波《ながしめ》があの絶壁の上の音楽堂に注がれた時、どんなにあの白い建築が、方解石のように美しく、形よく見えることだろう。あの白衣を着けたラマ僧のような音楽堂が(間)それは月夜のことだ、今この夕日に照り輝いている有様も、何と神々しい姿ではないか。円錐形の銀板の屋根は、洪水のように光を漲《みなぎ》らせ、幾万となく打ちつけた銀の鋲は、騎士の鎧よりも目覚ましい。白壁は薔薇色の陰を帯び、窓の掛け布は恋人の腕にすがった乙女のように力なく垂れ下がり、それに空の七色が接吻している。(間)海に突き出した高殿の一郭は岩の上の鷲の巣のように、まことにあやうく見えるけれど、勇ましさも一層で、美しさはそのあやうく勇ましい所にひそんでいる。あの高殿で恋を語ったら、どんなに悦《うれ》しいことだろう。
従者 御前様!
領主 (うるさげに)何だと云うに。
従者 もう窓から外を見るはおよし遊ばせ。
領主 いいではないか、外を見るのは俺の勝手だ。お前は俺の云いつけた通り、御客様を御馳走する準備をせい。(とまた窓の外を向き)ああ初夏の夕べほど気持ちのよいものはない。草花の雌蘂《めしべ》には咽《む》せかえる程の香りがあり、花弁にはルビーのような露が溜り、黄金虫は囁くような恋の唸りや、訴えるような羽音をさせて、花から花、梢から梢へと飛び巡る。物の音色、光や陰には優しい艶が着き、人々の眼差しには、たえられぬ内心の悶えや恋や喜びが、恥かしい程あふれている。(間)だが俺の心はどうだ、(破裂せる如き調子)俺の心はまるで謀反人《むほんにん》の心のように、絶えず苦しみ、気を遣い、他人の思慮《おもわく》を憚り、そし
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