女A 空が水銀のように晴れて、滴が垂れそうな晩でございますね。(間)ごらん遊ばせ、お月様が空のまん中を軽々と歩いていらっしゃります。お月様の通る道には雲が金色の縁《へり》をつけております。風が渡ると見えて、その雲は千切れたり集ったり致します。そして皆んな音楽堂の丸家根をめがけて押し寄せて参ります。(笑う)おしかけ婿様のような雲でございます。
女子 そのように、騒いではいけぬじゃないかえ。今夜はそんな晩ではありません。(間)ほんにお月様は空のまん中を歩いていらっしゃるが、その御様子が大変心配ごとでもおありなされるように見えるじゃないか、そして私にはいつもより大そう形が大きく見える、そして光が青く見える、そして顫《ふる》えておいでのように見えるぞえ。雲の間をお通りなさる時は、忍びやかに恐ろしそうに、丁度暗殺者の群の中を及び腰で通って行くようだ。お月様の周囲を取りかこんでいる雲は、平常《いつも》の夜とは違って形が怪しく見えるじゃないか。お心よしの王様を毒害しようと、毒のある盃を口許へ突き出したような雲、墓場の門を大勢の亡者が押し破ろうとしている雲、葬式の柩を尼寺の尼僧と童貞ばかりが送って行くような雲、運河の上を数限りもない帆舟が行き、その舟の中には経帷子《きょうかたびら》を着た女と男、老人と子供の亡者ばかりが乗りこんでいて、呪詛の叫びをあげているような雲、(間)そして一番はっきり[#「はっきり」に傍点]と見えるのは、天才らしい青年の音楽家が、競技に敗けて愧死するように見える雲だが、あの青年は誰れやらに似ているように思われるぞえ。
使女B どの雲でござります。
女子 (窓口に来り、空を指し)今、音楽堂の丸家根の上にじっと止《とま》って下を見下ている、あの雲の形がそのように見えるじゃないか。
使女A (笑い)水母《くらげ》が躍っているように見えるではござりませぬか。
使女B 白痴の子供が裸体で騒いでいるようにも見えますが。
使女A ほんにそのようにも見えまする。
女子 (首を振り)いえいえそんな形じゃない、あれは大変悪い前兆の雲だぞえ。あれいつまでも丸家根の上から離れぬじゃないか。他の雲は皆んな丸家根を越して、彼方《むこう》へ彼方へと行ってしまうけれど、あの雲だけが動かずに、じっと音楽堂を見下している。あれが悪い前兆だと云うのだぞえ。
使女B お嬢様は昨夜からかけて、よほどお
前へ
次へ
全77ページ中36ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング