かぬものの如く)短嬰ヘ調は地獄の音調でござります。――この音調の響く時、まず眠りが参ります。その次に死が参ります。(間)短嬰ヘ調を銀の竪琴に合わせて歌う令人は、全世界に唯一人ある(間)「暗と血薔薇」の曲を弾く、紫の袍を着た人だ。(この時より言葉の調子荒くなり、一層朗吟的となる)やさしき女よ。お前は間もなく、その悲しい歌を聞かねばならぬ。お前のなつかしむ恋人に逢う時は、その死の歌を聞く時だ。その死の歌を聞く時が、女よお前の一生で、最後の幸福が来る時だ。(間)悲しいこの歌の犠牲となった、世に美しい女の中には、一国の領主の妻もあった。領主の妻は、高い岩の頂きに住み、海の人魚に歌を送り、わが身を人魚に例《なぞら》えていた。……ああ実《げ》に死に行く人魚よ!(窓口に行き、音楽堂を眺め)悪しき紀念の音楽堂が、不貞の妻のために造られて、白からぬ女の霊魂を、何時まで彼処《かしこ》に止め置くのか。(領主を返り見)愚かなる領主の君! (女子はこの間に恍惚たる心となり、柱によりかかりて首を垂れる)再び罪と嘆きを呼ぼうとて、Fなる魔法使いを此処に召した。巡り来る、必然的の運命なれば致し方もあるまいが、(領主を見て)さりとては、うつけ者の領主の君! (また並びて眠れる騎士、音楽家を眺め)眠れば死んだと同様なるお前達! 大理石の邸宅が焼け、金剛石の腕輪が燃え、氷山の頂きに裸体の女が立っていても、また東洋の草や木が、ホライズンの彼方に見えて、巫人《みこ》の一群が丸き輪をなし、聖歌を歌いながら躍っていても、眠ったお前達には何も見えまい。(突然)神秘の曲が夢に入る。早く各自の楽器を鳴らせ。(一同無意識に楽器を鳴らす、その音、場に充《み》つ)地獄へ送る送別の音が、いと高々に鳴り渡っても、眼醒むる人は一人も無い。(女子を見て)野を行く柩のかけ[#「かけ」に傍点]衣《ぎぬ》が、麻で織られた白布でも、大理石の温槽《ゆそう》の中へ、流れて落つる雪どけ水[#「雪どけ水」に傍点]でも、お前の今の心のように、清いものは世にあるまいが、それが亡びようとしているのだ。しかし小鳥よ眼を醒すな、眼を醒さずに音を聞け! (と短嬰ヘ調の音をかき鳴らす)聞け聞け今の一曲が「暗と血薔薇」の序の一節だ。湧き狂い立つ罪の喜びが、どのように暗の中で笑っているか、その一曲では未だ知れぬ、小鳥よ眠りながら再び聞け。(とまた弾ず)暗は罪悪を醗
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