下りて来る時、殿堂の姫君達は夜の衣をひきまといて、密かに寝所を遁《のが》れ出で、湖水の面に漂っている、ゴンドラへ乗り込みましょう。そこで罪ある歓楽は遂げられます。(間)姫君達が、そのゴンドラを立ち出でて再び寝所へ戻られた時、室の中には暗と血薔薇が歌っています。(間)恋人を知らず恋人を得んとも思わず、髑髏《どくろ》の盃を見るようなつれない[#「つれない」に傍点]女子でも。また尼寺の童貞でも、森の中の蛇の皮と、裸体祭の風流男《みやびお》とを百年の仇と思いつめるような、情《なさけ》知らずの乙女でも、櫛を折り、鏡を砕き、赤き色のあらゆる衣を引き裂いて、操を立てた若い後家《ごけ》でも、一度Fなる魔法使いの「暗と血薔薇」の音を聞けば、必ず熱い血が躍る。(と銀の竪琴をかき鳴らす)
女子 その「暗と血薔薇」の曲は、私の恋しい人が常々弾いた曲でござります。
白髪の音楽家 恋しい人は、光のように早く来るがまた影のように淡く消ゆるものでござります。(間)淡く消えた影の恋人も、暁の太陽のように、海を照らす探海燈のように、やがて何処《いずこ》からともなく、赤々と現われて参ります、(間)万年、千年、百年、十年。いやいやそのように遠い月日ではない。一年、一日、今宵の中に、その恋人は紫の衣で現われましょう。
女子 (前へ進み)あの紫の衣で現われてか。
白髪の音楽家 赤い色は血の色で、毒々しい罪の色。青い色は秘密の色。この二つの色を合わせた紫の色は、世界の乙女の好む色。この紫の袍を着て、Fなる魔法使いは現われましょう。
女子 そして「暗と血薔薇」を歌ってか。
白髪の音楽家 何かは存じませぬが、まずこのように掻き鳴らします。(と銀の竪琴をかき鳴らす)この銀の音を聞く時は、(凄惨たる音調と、命令的の口調)雄獅子も眠り砂漠の月も空に彳《たたず》む。夢遊病患者が夜の都会の大理石の道を、青い煙のようによろめき歩いても、やがて運河のほとりの岸で、打ち仆《たお》れて眠ります。(威圧的の強き口調にて)騎士も眠り領主も眠る。(立ち並びいる騎士、音楽家は、各自の楽器を介《かか》えしまま、床上に片膝をつきて眠る。領主は傍の寝台の上に仆れて眠る。使女や童はいつしか退場、従者は壁によりかかりて眠る)――醒めたる者は恋人同志の二人だけ!
女子 (なつかしげに)その恋人はどこにいるのでござります。
白髪の音楽家 (女子の言葉を聞
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