もむしろ国の義務を全うせんがために起これり。二者もとより反対にはあらざるも、その差違を言えばややかくのごときものあり。吾輩は保守論派をもってこの篇の終尾となし、さらに「国民論派」と題してこれが補遺とし、もって政論考を完了せんと欲す。
第六 国民論派
国民的精神
国民的精神、この言葉を絶叫するや、世人は視てもってかの鎖国的精神またはかの攘夷的精神の再来なりとなせり。偏見にして固陋《ころう》なる者は旧精神の再興として喜びてこれを迎え、浅識にして軽薄なる者は古精神の復活として嘲りてこれを排したり。当時吾輩が国民論派〔あえて自らこの名称を取るにあらず、便宜のため仮りにこれを冠するのみ〕を唱道するや、浅識者、軽薄子の嘲りを憂えずして、むしろかの偏見者、固陋徒の喜びを憂う。何となれば国民論派の大旨はむしろ軽薄子の軽忽に認むるかの博愛主義に近きところあるも、反りて固陋徒の抱懐する排外的思想には遠ざかるをもってなり。吾輩は今ここに国民論派を叙するに当たり、かの軽薄子のため、またはかの固陋徒のために、まず泰西において国民的精神のいかにして発達せしかを略説すべし。
泰西国民精神
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