は実に当時民選議院論建白の出でたるに始まる。
 吾輩はこの期の政論派を汎称して民権論派と言う、何となればその論旨の異同如何にかかわらず、みな民権自由の説をもって時の政府を攻撃するものなればなり。しかれどもこの論派にありて当時すでに二種の分子を孕み、いまだ相|軋轢《あつれき》するに至らざるも、隠然その傾向を異にしたるは争うべからざるがごとし。民権論派はもと民選議院論に促されて起こりたるの姿あれども、これただその民権説に促されたるのみ、いわゆる寡人政府の専横というに同意したるのみ、民選議院設立を急務とするの点に至りてはこの論派あえて熱心にこれを唱道せざるがごとし。当時の論旨を察するに、この論派は民権拡張を主張すというよりは、むしろ現政府を攻撃すというにあり。この過激なる論派を代表せし人々は今日これを詳悉《しょうしつ》することはなはだ難し。ただ吾輩の記臆するところを挙ぐれば、一方には小松原英太郎、関新吾、加藤九郎などの諸氏あり。他方には末広重恭、杉田定一、栗原亮一らの諸氏ありて政論のために禍を速《まね》きたること一、二回に止まらず。これより先政府は民間政論の漸く喧《かまびす》しきを見、明治八
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