するに際す。伯の旅行はビスマルク公のためにこの上もなき機会となりしがごとし。さればドイツ政府は伯のためにでき得るだけの好意を表し、この機に乗じてドイツの勢力を日本に及ぼさんことを計画したるや疑いあらず、憲法編纂の顧問数名はドイツより来たれり、法典編纂の顧問数名はドイツより来たれり、法科大学の教師はドイツより来たれり、しかして条約改正の業もまたドイツ政府において隠然これを賛助するの傾きさえありき。
 日本はすでにドイツ風なるものの流行を感じたり、しかのみならずかの井上伯はその重任たる条約改正を成就せんには欧州各国の風習を日本に入れ、欧州人をして日本をその同情国なりと思わしむるの必要を感じたり。かの十七年における清仏の戦争は、伯これを視て東西両洋の優劣を示せる最近の例証となし、とうてい尋常の手段にては外国と同等の交際をなすあたわずとや思いけん、まず日本国民を挙げて泰西風に化成するにあらざれば樽俎《そんそ》の間に条約を改正すべからずとまでに決心したるがごとし。ここにおいて日本の上流社会は百事日本風を棄てて欧州風に変革し畏《かしこ》くも宮廷内における礼式をさえ欧州に模擬したりき。これ実に明治十七、八年より二十年に至るまでの事情にして、吾輩これを欧化時代と称すべし。第三期の政論派が第四期に移りたるは実にこの時代にあり、この期の政論状況を汎叙すれば誠に奇怪なる変化を見るに足るべし。いかに変化せしか、いわく第三期において保守派とまでに称せられたるかの帝政論派は一変して欧化論派となれり。いわく前期の激進派たる自由論派はこの時において反りて保守論派となれり。いわく改進論派の一部は欧化論派に傾き他の一部は保守論派に傾きたり、これ豈に政論の奇変にあらずや。
 もし文明進歩と言えることを解して泰西風に変化することとなさば、当時の政府ほど「進歩主義」なりしものはいまだこれあらざるなり。もし進歩主義と言えるものがただ泰西の事物または泰西の理論に模倣するの主義を意味するならば、今の進歩主義と自称する論派は当時にありて双手を挙げて政府の方針を賛頌せざるべからざりしならん。しかるに自由論派または改進論派は毫も賛成を表せざるのみならず、反りて痛くこれに反対したり、しかして「保守主義」と呼ばれたる帝政論派の遺類、たとえば『東京日日新聞』のごときは大いに政府を賛助したることこれはなはだ奇なりと言うべし。人
前へ 次へ
全52ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
陸 羯南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング