お》れ、後藤氏は政界を去りて実業に当たり、副島氏は東京にありて高談雅話に閑日月を送る。ここにおいて政府の反対者たる政事家はただ九州と四国とに蟠踞《ばんきょ》していわゆる西南の天には殺気の横たわるを見るに至れり。吾輩は第二期の政論派すなわち民権論派を区別して四種となせり、その中に悒欝《ゆううつ》的論派とも言うべき慷慨民権派は実に薩摩なる西郷氏を欽慕するものに係る、しかして快活的論派とも言うべきはすなわち土佐の板垣氏に連絡ありてその根拠を大阪の立志社連に有せり。十年の乱は実に政界を一変せり。かの一派の民権論者は西郷の敗亡とともにほとんどその跡を絶ち、あるいは官途に入り、あるいは実業に従い、またあるいは零落して社会の下層に沈没し去れり。快活的の一派はこれに反してますますその勢力を博し、当時西郷の敗亡を袖手《しゅうしゅ》傍観したる板垣氏はひとり民権派の首領たる名誉を擅《ほしいまま》にして、政界の将来に大望を有するに至る、これを十年十一年の交における政論の一局状となす。
 兵馬の力をもって政権を取らんと欲するものはこの時をもってほとんど屏息《へいそく》せり。これと同時に政論はほとんど全国に延蔓するに至る。関西地方は土佐の立志社、大阪の愛国社、すなわちかの快活的論派をもって誘導せられ、関東地方は多くかの翻訳的論派に動かされたり。しかしてかの折衷的論派は関の東西を問わずおよそ老実の思想を有する者みなこれを標準とせしものに似たり。十年以後一、二年間政論の全局は以上に述べたるがごとし。この間において政論は幾分か高尚の点に向かって進み、自由民権の説はかの王権および政府権威の理とともに世人のようやく講究するところとなれり。これ実に第三期の政論の萌芽と言うべし。かつ当時の一政変は政論をしてますます改革的方針に向かわしめたるものあり、十一年の中ごろ、時の政府に強大の権力を占め内閣の機軸たるところの一政事家は賊の兇手に罹りて生命を殞《おと》したり。岩倉右府の力量をもってすといえども抑制すべからざりし二、三藩閥の関係はこれがために幾分か調和を失い、政府部内の権力はふたたび一致を欠き、ついに種々の政弊を世人に認めしむるに至る。
 西南の役に当たり兵馬|倥偬《こうそう》の際に、矯激の建白書を捧げ、平和の手段をもって暗に薩州の叛軍に応じたるかの土州民権論者は、大久保参議の薨去《こうきょ》を見てふたたび
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