やや充備したる民権論派の萌芽は生じたり。この論派は最新洋学者の代表するところにして慶応義塾等において英米の政治書を読みたる者は多くこの論派に帰す。ここにおいて民権論派は隠然三種に分かるるの姿を現わせり、しかして当時有名の新聞記者福地源一郎氏は隠然政府弁護者となりて暗に民権論の反対に立ち、自ら漸新主義の政論者をもって居りたるもののごとし。
功臣分離の時よりもって西南戦争の年に至るまで、この間の政論をば吾輩仮りに民権論派と名づけたり。この論派中にはおおよそ四種の分子ありといえども、その三種は時の政府に反対して民権を主張したるはすなわち同一轍なりしというべし。他の一種といえどもあえて明らかに政府の弁護者と称せられたるにあらず、ただ民権説を主張するにおいてやや国情を※[#「酉+斗」、第4水準2−90−33]酌《しんしゃく》したるに過ぎず、当時にありてはこの論派中各種の間においていまだいちじるしき論争を開きたることあらず。このゆえに吾輩はこれを一般に民権論派と称してその各種の異同を吟味せん、何をか民権論派の四種と言う。
第一種と第二種とは吾輩の前段において過激論派と称したるもの、すなわち民選議院建白を聞きてただちに起こりたるところのものなり。この第一種は幽欝民権論ともいうべきものにして、多くは在野征韓論者の変形にしてその論素は実に和漢歴史の智識より生ず、ゆえにその民権を唱えたるの危激なりしにかかわらず、民権拡張の道理にははなはだしき熱心を抱かず、目的はただ政府の二、三大臣のみにて政事を執り、在野の賢良とともにせざることを不満としてこれを痛く非難するに過ぎざるがごとし。されば西南戦争の鎮定とともに彼らはその旗幟《きし》を撤して、また前日のごとく危言激論を作《な》さざるに至れり。第二種はこれに反して快活民権論ともいうべく、浅薄ながらも西洋の学説を聞き、日本将来の政体は現時のごとく君主または二、三権臣の専制に任すべからず、文明国の風に倣い人民の権利を重んじ、人民の公議輿論をもって政をなさざるべからずと信じたるもののごとし。これ実に日本における自由主義の萌芽にして政論史上記臆すべき価あり。第三種の民権論者はこの期に在りて最新の政論者なり、吾輩これを翻訳民権論と名づくべし、彼らはみな昨日まで窓下に読書せし壮年もしくは新たに西洋より帰りたる人々なり。第二種の論者よりは幾分か多くの洋籍
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