年半ばごろ厳重なる法律を制定し、もって志士の横議を抑制したり。しかれどもこの法律は反《かえ》りてますます政論派を激昂せしめ、天下の人をしていよいよ政府の圧制を感知せしめたるの状なきにあらず。これよりその後、民権論なるものは青年志士の唱えて栄とするところとなるに至れり。
当時日刊新聞紙の業ようやく進歩し、いわゆる新聞記者なるものはかの激論的雑誌記者とともに政論を唱道したり。『横浜毎日新聞』、『東京日日新聞』、『郵便報知新聞』、『朝野新聞』、『読売新聞』の類はもっともいちじるしきものなりき。しかれども新聞紙はいまだ政論の機関となるに至らずして、おもに事実の報道に止まり、したがってその政論もまたやや穏和婉曲にてありき。民権論派の主義の大体を考うるに今日の民権説と少しくその趣を異にし、その立言はすべて駁撃《ばくげき》的よりはむしろ弾劾的に近く、道理を講述すというよりはむしろ事実を指摘するにあり。しかれどもその天下の人心を動かしたるにおいては吾輩しばらくこれを一の論派として算えん。彼らの言論に以為《おもえ》らく、「政府なるものは人民を保護するにあり、もし保護せずして反りてこれを虐遇するはこれを圧制政府という。圧制政府はいつにおいてもどこにおいても人民の顛覆するところとならざるべからず。欧米各国において共和政治の起こりたるはみな圧制政府を嫌うがためなり、すなわち圧制政府の倒るるは自然の数というべし」、しかして彼らはまた大呼して「民権は血をもってこれを買うべし」といえり。
これに因りてこれを見れば、彼らは政治の理論を説くにあらずして政変の事実を説くものなりき。事実の上よりしてその説を立てもって時の政治を排斥したるに過ぎず、すなわち彼らはほとんど理論上の根拠を付せざるに似たり。千五百年代英国において民権説の勃興するや、時の学者らはおもに宗教の上よりその論拠を取り来たり、暴虐の君主は神の意に背く、ゆえに神に代わりてこれを顛覆せざるべからずといえり。学理のいまだ進歩せざる当時にありても、ややその根拠を確かめたるもののごとし。当時わが国の民権論派はほとんど共和政治を主張するまでに至りたれども、ただ事実の上に起点を置き、いまだ一定の原則を明らかにしたることあらず、日本の近世史上にはその跡を止むるの価値あるも、政治の理論としてははなはだ微弱なるものと言わざるべからず。しかるにこれに続きて
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