捷《たいしょう》を博し、王政再興論はついに全国の輿論《よろん》となるに至れり。別言すれば外政上に大捷を得たる消極論派も内政についてはまた大敗を取りたりというべし。維新の際に至り、わが国の政論は政体とともに一変し、ほとんどまた旧時の面目にあらず、あたかも維新前の二大論派がおのおのその一半を譲りて相調和したるの姿あり。この調和の後、暫時にして隠然また二政論を現出す。これを維新後政論派の第一期となすべし。
 外人は讐敵なり、よろしく親交すべからず。この思想は当時すでに社会の表面より駆逐せられたり。皇室は虚位なるべし、これに実権を付すべからず、この思想もまたすでに輿論の排除するところとなれり。ここにおいて開港論派と王権論派とは互いに手を握りて笑談す。これ旧時とまったく面目を異にせる大変改なりき。これよりその後、有識者の思想は開港貿易もって広く万国と交際し、王政復興もってことごとく海内を統一すというに帰す。政事上の思想この大体に一致したりといえども、将来の希望に至りてまた二派に分裂するは自然の状勢とや言うべき。当時日本人民は新たに鎖国時代より出でて眼前に世界万国といえるものを見、そのはなはだ富強なるに驚きてほとんどその措くところを失いたり。識者間の考量もまたもっぱら国交上にありて、いかにして彼らと富強を均《ひと》しくすべきかの問題は、士君子をして解釈に苦しましめたるや疑いあらず。やや欧米の事情に通ずる人々はおのおのその知るところを取り、あるいは近時露土戦争の例を引き公法上彼のその国権を重んずるゆえんを説き、あるいは鉄道、電信等の事を挙げ経済上彼のその国富を増す理由を説き、もって当務者および有志者に報告したり。
 ここにおいて一方には国権論派ともいうべきもの起こり、中央集権の必要を説き、陸海兵制の改正を説き、行政諸部の整理を説き、主として法制上の進歩を唱道せり。他の一方には国富論派ともいうべきものありて、正反対とまでにはあらざれども、士族の世禄を排斥し、工農の権利を主張し、君臣の関係を駁《ばく》し四民の平等を唱え、主として経済上の進歩を急務としたるがごとし。当時この二論派を代表したるははたして何人《なんぴと》なりしか。吾輩は今日より回想するに福沢諭吉氏は一方の巨擘《きょはく》にして国富論派を代表したるや疑うべからず。同氏はもと政治論者にあらず、おもに社交上に向かって改革を主張し
前へ 次へ
全52ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
陸 羯南 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング