て來月からでも起工するとしようかね」
 主事は地に片手を棹さし首を長くして二人を怪訝そうに見送った。
「まあ、このことはいずれ……」
 洋服と周衣《ツルマギ》氏は煙をはきステッキを振りながら向うの方へと立ち去っていった。
 その日から彼はちっとも町へは姿を現わさなくなった。いつにもまして版圖の檢分を嚴重にし、身仕度を終えると彼の小屋が眺められる丘の上へのぼる。そして寢轉んで青空を眺めながらその日その日を暮した。(わっしの領分はあんなにじめじめして狹いのに、空はどうしでこんなに青く廣いのだろう)彼はそれ以來天國に遊ぶようになった。(空は淋しいだろうな)
 或る夕暮私はこの丘の上に立ったことがある。入日の反照を受けた荒蕪の野の遙か遠くには、小川の流れが仰向けに黄色くなって倒れている。丘の下尹主事の版圖はいつの間にか紡績工場の基地として占領され、方々に赤い旗や白い旗が立ち並んで野風にひらめいていた。そこここに歸り支度をすましたらしい五六人宛の職人が焚火を圍んで騷いでいる。
 偶々カチ鴉が二羽慌ただしく飛んで來て近くのアカシアの梢で啼いた。そしてその後を追いかけるようにして、一人の男が大きな板をふり廻しつつ熊みたいに薄暗がりの中を驅け上ってきたのである。
「學生さん!」彼は遠くから私を見てとったとみえ喘ぎ喘ぎ叫んだ。私はそれが尹主事の聲であるのを知った。彼は私の鼻先まで近付いて息をはあはあ吐いた。
「やっぱり學生さんだべ」
 私は彼の顴骨が異樣に突き出し兩眼が深く落ち窪んで、この一月の間にみるめもなく衰えているのを見た。
 主事は息を嚥んで板をさし向けながら彼の版圖を示した。名札の板を擔いで歩いていたのだ。もうあたりは薄闇の中に陷落し始め、野原で燃えていた梵火もすっかり消えかかっている。
「工場が立ちますだよ」彼は私の袖を引いた。「そらこっちきなさるだ。そらこっち、あすこに旗が踊ってますだね。でっかい羽二重《ハビタン》の工場ですぞ――ひっひひひそうでがしょう! ひっひひひ」
 私は彼を默ったまましげしげと横から見つめていた。主事は矢張り地下足袋をはきゲートルを卷き付けている。併しつっ立った彼の姿はもう燒き盡された火事場の黒い柱のようにしか思えなかった。彼は私の眼に氣が付くと獨りでてれたように淋しく笑った。
 その時工事場で働いていた職人達ががやがや騷ぎ立てながらやって來た。
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