なく読ませたのだ。実に何ということか。瞬間、これは天祐ともいうべきいいチャンスだぞと彼は思ってしまった。キリストの復活だとも考えた。たとえ学芸欄の一隅の小さな活字とはいえ、彼とはそれこそ本当に並々ならぬ親交のある、東京文壇の作家田中が、満洲へ行くついでに京城へ立ち寄って朝鮮ホテルに投宿しているということをそれは知らしていたのだ。
「行かねばならん」
 玄竜はぶるっと身をふるわせて立ち上ると、一旦重々しく肩をすくめ出口に向って南京虫のように動き出した。彼には固く念ずるところがあったのである。丁度行きしなにコーヒーを運んで来る女の子とぶっつかりそうになると、ひったくるように茶碗を捉え上げて熱いのも構わずぐいぐい飲み干し、呆然となっている女の子や調理人達を尻目にあたふたと出て行くのだった。
 本町通りはいくら午前中でも明菓あたりから通り出口の方にかけては、人々の群でいつも氾濫する程に雑沓する。そそっかしく下駄を鳴らして歩く内地人(日本人、以下同じ)や、口をぽかんとあけて店先を眺める白衣のお上《のぼ》りさんや、陳列窓に出した目玉の動く人形にびっくりし合う老婆達や、買物に出掛ける内地婦人、ベルの音もけたたましく駆けて行く自転車乗りの小僧に、僅か十銭ばかりの運賃で荷物の奪い合いをする支械《チゲ》軍などで。玄竜はこういう人々の波をくぐるように急ぎ足で通り抜け、鮮銀(朝鮮銀行)前の広場に出て立ち止った。電車が繁く往き交い自動車が群をなしてロータリーを走り廻っている。彼は慌てふためきつつ広場を突き渡って、向い側の静かな長谷川町の方へはいって行った。暫く歩いて行くと右側に高い昔風の塀が続いて、古色蒼然とした宏壮な大門が立ち現われる。それをくぐってはいれば広い庭園の中に、韓国時代どこかの国の公使館であったとかいう立派な洋館があった。玄竜はそこまで殆んど無我夢中に辿り着くと、胸を躍らせつつ廻転扉を押して追い込まれるようにはいって行った。
「田中君に取り次いで下さい」と彼は帳場の前に立ち現われるなり、十二分に威厳をつくろって口を切った。「僕、玄竜と申します」
 髪を綺麗に梳《す》いて分けたボーイは野郎又来やがったなといった調子で、彼の方を上から下へとじろじろ眺めてから、
「お出掛けですが……」
「出掛けた?」玄竜は如何にも意外らしげに、しかも自分はそれを充分意外に思ってもいい人だというふうに
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