ように首を振っておしぼりはないという仕草をした。と、彼は一度でれりと横目で皆を睨み附け、いきなり鼠のように水道の方へ飛んで行ってざあざあ水をぶっ放したかと思うと、頭を突き出してふーふー水を浴びながら顔を洗うのだった。皆はてんから呆気《あっけ》にとられたが、彼がへへへと照れ臭そうに笑いつつ出て行った時、
「気違いじゃろか」と先の一人は首をひねったのである。
「いや、玄竜だ、玄竜だよ」
「そうだ、あれに違いない」
「小説家の玄竜だよ」
 等と、皆は口々に囁き合いながら、食器の出し口に寄り集って覗き出した。見れば玄竜はもう自分の席に帰って、丁度傍においてあった朝刊を鷲掴《わしづか》みにして顔や首筋をふいているのだった。彼はちらっと流眄《ながしめ》で調理人達が詰め寄り自分の方に目を注いでいるのを見やると、すっかりいい気になって、真黒く濡れて皺くちゃになった新聞紙をぽんと鷹揚《おうよう》に卓の上へ投げた。そこで何気なしにそれに目をやったところ、紙の一つの襞《ひだ》の方を大きな一匹の南京虫がのそのそ這い廻っているのを見て目を瞠《みは》った。思わず彼はにこりと笑いを浮べ、心持ち体を乗り出したのである。南京虫はあまりに血を貪《むさぼ》り啜《すす》ったのであろうか、急に逃げ腰になってはいるが、赤く膨れ上り過ぎて足が云うことをきかぬらしく体を持てあましている形だった。時々|辷《すべ》って転げ落ちそうになるが、指先を持って行けば又慌てて逃げ出すのだった。もともと彼は南京虫が好きである。地べたにひっついて這い歩く様子が、自分の態《ざま》によく似ているとでも考えているのだろうか。或はその図太さや狡さが好ましく思われているのかも知れない。それにおやこれは今まで自分の首筋を這い廻っていたのに違いない、さてはあのメロン頬の女から背負わせられた奴かなと思うと、何故かしらくすぐったいような腹立たしさを感ずるのだった。彼はいきなり肩をうねらせてひひひと笑った。が、おやっと思ってみるといつの間にやら、南京虫はすごすご急いで今度は襞の裏の方へ逃げ隠れようとしている。彼は素早くその一端をつまみ上げてそうっと裏返し、いかにも面白そうに飽《あ》くまでその行方を見守った。ところがものの二三分もせぬ中に突然彼は目をむいて仰山《ぎょうさん》に驚き上った。南京虫は丁度ある一つの見出しの上を通りながら、一字一字を彼へそれと
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