あくびをやった。すると急に彼は空腹を感ずるばかりでなく、中々田中が帰りそうもないので、一応出て行こうと思って寝呆けた顔を突き出し帳場の方を窺ってみた。ところが丁度もっけの幸いに帳場には誰もいなかったので、彼は素早く脱兎のように抜けて外気の中へ飛び出したのである。もはや午後の日差しがうっすら淋しく大道にかげり、空風《からっかぜ》があちらこちらに埃を吹き上げている。どこかで安い食事を取って、それから一先ず田中達が行っておりそうな所を方々捜し廻らねばならないと彼は考えた。けれど自分にもどういう訳かははっきり分らないが、彼は再び歩き出しつつ怪しからんと憤《いきどお》ろしげに呟いた。恐らく田中が自分に朝鮮へ来るからという知らせの葉書一枚もくれなかったことをいうのであろう。確かに彼は自分が朝鮮に帰って今は歴とした大家になっているなどと、あられもないことを何度も云ってやった筈だのに。
わが京城は黄金通りを境界線として、その以北が純然たる朝鮮人街である。長谷川町から黄金通りへ出、茶房リラの前へ通りかかった時、玄竜は一寸覗くだけにしようと首を突き入れ一|亘《わた》り紫煙の中を見渡したが、そのとたんにわれ知らずにこりと笑った。一杯人々のとぐろを巻いているさ中に、目もさめるばかり真白く着飾った女流詩人文素玉が、百合のように楚々《そそ》と坐っていたのだ。彼は急に幸福な気持になって転ぶようにその中へはいって行った。有名な玄竜が現われたので人々はお互い突つき合ったり、ぷっと吹き出したり、わざと蔑《さげす》むようにそっぽを向いたりしていた。女流詩人は丁度若い大学生の恋人を待っていたところだが、こういう注視の的《まと》の小説家が自分の方へやって来る嬉しさに、つい何もかも忘れてしまい、やや大きいめの脣を歪めて含み笑いながら彼を迎えたのだ。
「あらまあ、玄さん、珍しいですこと」
「へへえ、これは又|至極《しごく》面白いところで……」
と近附くや、玄竜は彼女の向い側の方にどっかりと坐り込んだ。皆の好奇の目は一斉にこの二人の方へ注がれた。尤《もっと》も彼等は皆とっくからもう退屈していた。だが、退屈といえば毎日のように退屈な連中ばかりである。所謂《いわゆる》茶房の彼等も亦現在の朝鮮の社会が生んだ特別な種族の一つであろう。少しばかり学問はあるが職は与えられず、何もなすことがないので髪でもクラーク・ゲーブル
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