なかった。私は大学からS協会への帰りみちなど、押上駅の前で二三回彼に遇ったことがある。彼の歩いて来る方向からすれば、どうやら彼は駅裏の沼地あたりに住んでいるようだった。それでいつか私はこう質《たず》ねたものである。
「駅の裏に住んでいるの?」
すると慌てて頭《かぶり》をふった。
「違うやい。僕の家は協会のすぐ傍だよ」
勿論途方もない嘘である。彼は学校からの帰りに、わざわざここへ遠廻りして遊びに来ると、夜の部がひけるまでは決して帰ろうとはしなかった。聞けば婆やの部屋で飯を貰って食べたことも一度ならずあったようである。私ははじめそんなに彼に注意を向けてはいなかった。だが或る晩彼が薄暗い婆やの部屋で飯をかき込んでいる様を見た時は、はっと驚いて立ち止ったのである。「へんだな」と私は自分に云った。だが私はどういう意味でそう云ったのか、はっきりはしなかった。そしてもう一度「へんだな」と呟いた。その恰好がどうも私には曰《いわ》くがありそうでなかなか思い出せなかった。ちぢかんだ丸背にしろ、顔にしろ、口の恰好にしろ、箸の使いわけまでも。しまいには私は息苦しくなって黙ったまま彼の傍を離れて行った。だが
前へ
次へ
全52ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
金 史良 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング