め諫《いさ》められながらもついにあの姉を小学校にさえ出さなかった。女に新教育は許せないというのである。いくら泣き喚いても、それは無駄であった。でも彼女は無智の中にあきらめていようとはしないで、七八の頃から千字文で一通り漢字を習い、朝鮮仮名はもう既に自在に読み書きが出来、小学校へ上ったばかりの私を先生としてそれ以来ずっと諸学科の知識をかじり、それから雑誌を取り寄せ新聞を読むなどして、その識見や思慮は私が中学にはいった頃はもう尊敬すべき程だった。
こういうところからして、私と彼女の間に於る姉弟の情にも又特別なものがあったと云える。私が帰る頃を聞き知って真先に母の許へやって来て待ってくれたのもこの姉だった。そして私が林檎好きだと彼女は勝手にきめて、いつも国光に紅玉など水々しくて色のよい甘そうなのを一抱えずつ買って来てくれた。彼女の死が老母に与えた精神的な打撃というものは余りにひどい。正にその次は自分位であろうとひとりよがりに考えて、少しでも余計に悲しもうとする私である。その姉が今度帰ればもういないのだと思うと、丈夫な歯が抜けたように心の一隅が空ろである。
それでもやはり故郷への帰心は抑え難くはげしい。これは一体どうしたものだろうか。左程に故郷を恋しく思わない友人達を見る度に、私はむしろ羨しくなり又自分をはかなく思うのである。此頃も私の家では母と京城の専門学校から戻って来たばかりの妹が二人きりで侘しく暮していることであろう。先日の妹の手紙には、私の帰って来るという四月は平壌の花植時だからその時揃って庭いじりをしましょうと書いてあった。私は丁度その先便で母や妹宛に、今度帰って行くことにしたから、裏庭にはあきれる程までにトマトを植え、井戸の上には藤棚をしつらえ、私のささやかな書斎の前にはヘチマを上げるように、そして前庭には絵屏風となるまでに朝鮮朝顔をと書いて送ったのだ。私は悲しみに打ち沈んでいる老母を、そんな仕事からでも気をまぎらわせたかったからである。それで妹の返事を見て重ねて手紙を出したところ、つい五六日前の手紙には母が着々用意を整え、トマトの方もあきれる程までに沢山註文したし方々から花種も取寄せているということだった。その上この文を草している今日は又奇しくも母が愈々《いよいよ》掘り返しをはじめましたと云って来た。それがどれ位の出来栄えか、今度帰ったら殊更《ことさら》私
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