云はせると、「人」を「人」として描くといふ事は、その画家の知識が入るのであつて絵画は純粋に感覚を以てすべきものであるから知識の混入は不純であるといふ。眼に見えて、一つの色として、塊《マツス》として、光として蔭として、「人」でも花でも鳥でも山でも草でも家でも何でもさういふ、現実上の事は考へずに描くのが本当の絵画的なやり方であるといふ考をそれ等の流派の人はよく唱へたものである。
 が、これ等の考は、吾々が描かうとする対象を見る時、只それ等を色として光として蔭としてのみ感じるのが、絵画的に純粋であると断定したところに致命的な誤りがある。絵画又は造形芸術の対象となり得べきものは決して、形や色の感覚のみに限られない。絵画上の対象となり得る感覚には、吾人の知覚、想像、生活上の経験聯想、及びそれ等に対する価値上の批判等によりて引き起こされる色々の「感じ」もこれを、造形上の利益となし得る、たとへば、人物の顔を描くに当り、その人の如何にも善良らしい風貌や、眼に宿るやさしさ、「心」等は、これは決して、色の感覚でも形の感覚でもない、もとより色、形によりてそれ等は見えるが、色、形そのものの感覚ではない。しかし
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