されたものと見えるものも、作家にとつては未成品であるといふ場合はよくある事である。
 只その場合、作家より、第三者の方が深い自然を見得る人である時はこれが正反対になる。即ち、作家がもうどうしてもこれ以上は描けないといふ所まで描いて、これを完成したと思つても、その作品を観る第三者が、その作家より自然観照に於て深い人である時は、その作は実に描き足らぬものとなる。
 レオナルドと、ヂヨコンド夫人との間には清いそして淡い恋があつたと云ふ説もある。しかし、それは解らない。この画の顔は、不思議な笑みをもらしてゐる。人にはこれを謎の笑ひと云ふ。幽玄な、深い気持のするその顔の中、うすい微妙極みない線を持つたその唇は、かすかに彎曲して、微妙なほゝ笑みをもらしてゐる。
 恐らくレオナルドの唇にはこの唇をかく時には、同じ微妙なそして同じ幽玄極まりない微笑をもらした事であらう。実際画をかく時、笑ひ顔を描く時は作家はどうしても思はず知らず一緒にほゝ笑むものである。又泣いた顔をかく時はやはりしかめつらをしなくてはかけない。これは事際《こときは》の事であつて、これだけでも、造形美術の中に、「心」を描く、造形的要素といふものがあるといふ事が分る。
 この画でもう一つ驚嘆する事はそのふくよかな、手である。
 古来、手を美くしく描き得る画家があればその画家は必ず偉れた美を知つてゐる画家であるといふ事が云ひ得る。手は人間の肢体の中でも最も線の交響の微妙な部分である。其処には無数の美くしい線が秘くされてある。力のある画家はその力その美を捕へる。
 手は眼に次いで、神秘な「生きものの」感じを持つ。手にこの神秘美《ミスチツク・ビユーチー》を見る事の出来る画家は沢山は無い。しかし、立派な芸術に描かれた手は必ず皆不思議に生きて、不思議に美くしい。日本の仏像でも、そのすぐれたものゝ手は実に微妙な像と、厚みの美くしさを持ち、ギリシアの彫刻に、手だけ欠けて残つたものがあるがその美くしさは手の美の事を云ふたびに思ひ出す。
 この、モナリザの手は、それ等の手の中でも、たしかに優れた美くしさを持つものゝ一つである。
 それはどこ迄もふくよかに、くらい中にほの白く浮いた様な、神秘的な感じを持つて、しかもその皮膚の下にはあたゝかい血がしづかに流れてゐる様な、この世のものであるやうで、又幽界のものである様な、不思議な美さを持つ。
 そのモデリング(丸味凹凸の調子)は又不思議である。微妙なそのふくらみは陰影と明るみとの不思議に微細なテクニツクによつて織り出されてゐる。その調子はどこ迄もやはらかい。その明暗は、微妙にとけ合つて、細かな凹凸が描けるが如く、描かざるが如くに表現されてある。そしてその味は又一種の荘重である。
 この手とともに、余はレオナルドの足の素描《すがき》を思ひ出す。これは、聖アンナとマリアと幼キリスト、幼ヨハネを描いた画の下画のための足で、やはり婦人の足であるが、これは素描《すがき》を以て、このモナリザ夫人の手と同じ様な微妙で幽玄で荘重の気持が表現されてある。
 このモナリザ婦人の画を、或る人々は肉感的であると云ふ。しかし、この画は見るものに只肉感だけを与へるものではない。
 この画には一面さういふ、肉感的と云はれる様な或る感じがある事はある。その謎の笑ひも、決して浄きものゝ浄き喜びではない。しかし、それは、不浄なるいやしい笑ひでは更にない。その手は、神を拝する手ではない。その手には、あたゝかい血と肉が不思議に動いてゐる。しかしその感じには少しの不浄とか肉慾の気持はない。
 モナリザの肉感は、犯し得ない肉感である。それは肉感でないとは云へない。しかしそれは肉の神秘感[#「肉の神秘感」に白丸傍点]である、肉の幽玄感である。彼女の眼には不思議の情がある。しかし、それは燃えてはゐない。静かである。
 余はこれを異端の味と呼ばう。彼女は黙つてほゝ笑んでゐる。そのほゝ笑みは、レオナルドのほゝ笑みである。そして、「芸術」といふものゝ持つほゝ笑みである。
 実にこの画は、「芸術」の何であるかといふ事を語る。芸術が道徳でもなく宗教でもなく実に芸術であるといふ事はこの画のほゝ笑みの謎を解するものには解る。その肉感に芸術にのみゆるされる異端の域の或るシンボルである。
 レオナルドは、この画を描く時、彼独特のアトリエの中で、モナリザ・ジヨコンド夫人を坐らせ、その近くで絶えず微妙な音楽を奏せしめて、ヂヨコンド夫人の心を絶えず、楽しませ、その口辺《くちべ》にたえずよき微笑を、たゞよはす様にしたと云ふ伝説がある。実に不思議なる芸術三昧の一境だと思ふ。
 実にこの画は芸術の三昧といふ事がふさはしい気がする。其処には実に複雑な心が生かされてゐる。荘重、肉感、幽玄、神秘、そしてそれ等が不思議な完成を示してゐる。
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