そのモデリング(丸味凹凸の調子)は又不思議である。微妙なそのふくらみは陰影と明るみとの不思議に微細なテクニツクによつて織り出されてゐる。その調子はどこ迄もやはらかい。その明暗は、微妙にとけ合つて、細かな凹凸が描けるが如く、描かざるが如くに表現されてある。そしてその味は又一種の荘重である。
 この手とともに、余はレオナルドの足の素描《すがき》を思ひ出す。これは、聖アンナとマリアと幼キリスト、幼ヨハネを描いた画の下画のための足で、やはり婦人の足であるが、これは素描《すがき》を以て、このモナリザ夫人の手と同じ様な微妙で幽玄で荘重の気持が表現されてある。
 このモナリザ婦人の画を、或る人々は肉感的であると云ふ。しかし、この画は見るものに只肉感だけを与へるものではない。
 この画には一面さういふ、肉感的と云はれる様な或る感じがある事はある。その謎の笑ひも、決して浄きものゝ浄き喜びではない。しかし、それは、不浄なるいやしい笑ひでは更にない。その手は、神を拝する手ではない。その手には、あたゝかい血と肉が不思議に動いてゐる。しかしその感じには少しの不浄とか肉慾の気持はない。
 モナリザの肉感は、犯し得ない肉感である。それは肉感でないとは云へない。しかしそれは肉の神秘感[#「肉の神秘感」に白丸傍点]である、肉の幽玄感である。彼女の眼には不思議の情がある。しかし、それは燃えてはゐない。静かである。
 余はこれを異端の味と呼ばう。彼女は黙つてほゝ笑んでゐる。そのほゝ笑みは、レオナルドのほゝ笑みである。そして、「芸術」といふものゝ持つほゝ笑みである。
 実にこの画は、「芸術」の何であるかといふ事を語る。芸術が道徳でもなく宗教でもなく実に芸術であるといふ事はこの画のほゝ笑みの謎を解するものには解る。その肉感に芸術にのみゆるされる異端の域の或るシンボルである。
 レオナルドは、この画を描く時、彼独特のアトリエの中で、モナリザ・ジヨコンド夫人を坐らせ、その近くで絶えず微妙な音楽を奏せしめて、ヂヨコンド夫人の心を絶えず、楽しませ、その口辺《くちべ》にたえずよき微笑を、たゞよはす様にしたと云ふ伝説がある。実に不思議なる芸術三昧の一境だと思ふ。
 実にこの画は芸術の三昧といふ事がふさはしい気がする。其処には実に複雑な心が生かされてゐる。荘重、肉感、幽玄、神秘、そしてそれ等が不思議な完成を示してゐる。
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 劉生 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング