う有望な人がつまらぬ習慣に引っかかっていないとも限らない。少くも諸君が、もう一層熱心に、燃えて来たら、その仕事は捨てなくてはなるまい。そして、洋画法を執るならば少くも今日よりはよりよき芸術的経験を君たち自身が感味するだろう。この事はもし現われるとしたら、今日の画壇にとって或る喜びであろう。よき芽はよき畑にまかれる必要がある。ついでだからいうが今日の展覧会に行ってみると、画が皆大きすぎる。あんなでっかいものを何だって描くのだといいたくなる。美を本当に見ると、あんなまねは出来なくなるものだという結論だけを、ここに唯かきそえておこう。
尤《もっと》も今日の日本画家の中《うち》に面白い道を切り開きそうになっている人が少しはある、まだいられるかもしれないが知らない。小林古径《こばやしこけい》君のものや、名は忘れたが国展の選外かに古池と古寺?かなにか描かれた人のもの、その他の会場で皆名を忘れたが二、三の人のものによき素描の芽を見た。唯その上に欲しいのは力だ。(力強い画という意味ではない)もう一つ深い味だ。魅力でももう一つ力が欲しい。
僕として、日本画をかくとしたら白描か、黒白《こくびゃく》を主としたものに少し色をつけるものをやってみたい。しかし、どういう風な描き方でなくてはいけないという事は決していえるものではない。さっき、写実の道としてけなした、日本画の西洋画のような描力にしても、すでにそういう美術品要素が出来《しゅったい》した以上、今日ではそれは下らないものだが内容さえよく、そしてぴったりすれば、その描方でもあるいは生かす事が出来よう。尤もかなりなまぬるい感じの画品だが、しかしそれにある美の内容がもしあればそれは生きる事が出来る。ただ無理にそれに内容を合わす必要はなく、そんな事をする事はすでに内容が死んでいる証拠である。
要するに、結局は今日の日本画は殆ど凡《すべ》て駄目、今日の日本画家の大半は西洋画にうつるべし、さもなければ通俗作家たれ。日本画は日本人の美の内容をもてる一つの技法としてのこり、装飾想像の内容を生かす道となり、そういう個性によりて今後永久に生かされるべし。以上。
底本:「岸田劉生随筆集」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年8月20日第1刷発行
初出:「国粋 第二号」
1920(大正9)年11月
※底本では題名の「想像」に「イマジネーション」のルビが付いています。
入力:鈴木厚司
校正:noriko saito
2007年1月6日作成
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