はぬ里の月を見るわれ
荷車にあまたつみけるかぼちや見て欲しき物ぞとわれも思ひぬ
朝露のまだひぬ畑の茄子の色濃き紫はうつくしきかも
[#地から1字上げ]七月三十日
わづか五日目方増して帰りしがわづかのうちにまた痩せにけり[#地から1字上げ]八月二日
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雑詠
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北隣り夾竹桃の花咲きてわが階上の窓うつくしき
われ食めば妻子《めこ》のかて減す道理ぞと知りつつなほも貪りてをり[#地から1字上げ]八月二日
みみたぶにうなりよる蚊の声すらも聞えずなりぬ今年の夏は[#地から1字上げ]八月五日
ねころびて夕空見れば大きなる二匹の蜘蛛の巣をかけてをり[#地から1字上げ]八月六日
まけいくさ尚ほやめずして人はみな飢えてかつえて痩せしほれけり[#地から1字上げ]八月十三日
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うれしきは(その一)
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橘曙覧に倣ふ
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うれしきは峠の茶屋につきたての大福食ひてばんちやのむとき
うれしきは思はぬ時に人の来て食べてくれよとお萩出すとき
うれしきは表装成りて拙かる書も引き立ちて見られ得るとき
うれしきははてしもあらぬ蒼海を汽船にのりて日ごとゆくとき
うれしきは届かぬものと決めてゐし小包つきて封をば解くとき
うれしきはよき点とりて孫の子が通知簿出して見せくるる時[#地から1字上げ]八月十日
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うれしきは(その二)
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うれしきはめさめてすぐにさつきつめ銀のきせるに煙吸ふとき[#地から1字上げ]八月十一日
うれしきは物を贈りて貰ふ人うれしうれしとよろこべるとき
うれしきは欲しき物食はで分けてやり喜ぶ孫の顔を見るとき
うれしきはついでに食べと老妻に夕餉の残りさはにとらすとき[#地から1字上げ]八月十二日
うれしきは黒き屋根超えむらさきの西山遠く眼にうつるとき
うれしきは長居の客の去りゆきておくれしひるげうまく食ふとき
うれしきは夕餉うまく食ひ了へて二階の縁にすずみゐるとき
うれしきはふと眼を上げて夕空にかがやき初むる月を見しとき[#地から1字上げ]八月二十一日
うれしきは声高らかに只今と帰れる孫の声を聞くとき[#地から1字上げ]八月二十三日
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平和来たる
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――八月十五日――
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あなうれしとにもかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ
あなうれしうれしかりけり生きのびて戦やめるけふの日にあふ
いざわれも病の床をはひいでて晴れゆく空の光仰がむ
計らずも剣影見ざる国内《くにぬち》にわれ住み得るかいのちなりけり
昨日までおびえつ聞きし飛行機の爆音すらもなごみわたれり
運よくも物一つ焼けず怪我もせず戦やめるけふの日にあふ
大きなる饅頭蒸してほほばりて茶をのむ時もやがて来るらむ
いざわれもいのちをしまむながらへて三年四年は世を閲さなむ
けふの日を誰にもまして喜ぶは先生ならめと人は云ふなり
けふの日を喜ぶ権利もたす君喜びてませと人は云ふなり
思いきやいのちたもちてわれもまた今日の此の日に相逢はむとは
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うれしきは(その三)
[#ここで字下げ終わり]
うれしきはガラス戸越して望月のさし入る夜半にふとめざむとき
うれしきは金色《コンジキ》なせる夕雲に仏の国を思ふとき
[#地から1字上げ]八月二十六日
うれしきはよきふみよくよみよき人のよきここ〔ろ〕ざしよくさとるとき[#地から1字上げ]八月三十日
うれしきは早暁起きて喞々《ショクショク》と秋の虫鳴く声を聞くとき
[#地から1字上げ]九月一日
うれしきは妻の作りしむしパンにあまきジャムを添へて食ふとき[#地から1字上げ]九月四日
うれしきは疲れをみせぬ老妻の風呂にもゆくと出でてゆくとき[#地から1字上げ]九月四日
うれしきはひねもす静かに坐りゐて思ふことうまく書き了へしとき[#地から1字上げ]九月十九日
うれしきはいろ紺青に晴れわたる秋晴の空を鳶とべる時
うれしきは秋晴の朝空高く有明月のまろきを見る時
うれしきは秋晴の空うちながめ縁に這ひでて陽にあたる時[#地から1字上げ]九月二十五日
うれしきは正直者の馬鹿を見る世に正直を押し通す人
[#地から1字上げ]十月二十七日
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雑詠
[#ここで字下げ終わり]
今一度起き上がらなと思へども思ふにまかせぬわがよはひかな[#地から1字上げ]八月二十七日
動くこと好まぬさがのわれ老いて門《かど》の外《と》さへも出で得ずなりぬ[#地から1字上げ]八月二十八日
饅頭が欲しいと聞いて作り来と出だせる見れば餡なかりけり[#地から1字上げ]九月一日
天われにいのち許さば杖つきて半里をありく力をしむな
雨もりてバケツも桶も間に合はずはてはままよとあきらめにけり[#地から1字上げ]九月四日
近からば君がりゆきて茄子トマト腹に満つまで食べなむものを
近からばかた手にあまる大きなるトマト携へ訪ひ来んものを(以上二首小林輝次君の葉書を見て)
今やまたひなた恋ほしくなりにけりひなたに出でて蟻を見てをり
今日はまた力め[#「め」に「〔ぬ〕」の注記]けぬる如くにて為すこともなく枕してをり
余りにもからだだるくて腹が立ち思はず荒き声立てにけり[#地から1字上げ]九月七日
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平和来たる(その二)
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何も彼もやがては遂に焼けなむと諦めゐたる物みな残る
爆弾にもろ手失ひわかものの生き残れるは見るもかなしき
怪我もせず物も焼かれず生きのびて今日の日に遇ふ夢のごとくなり
満洲は支那にかへれりやがてまた大連立ちて吾子も帰らむ[#地から1字上げ]九月四日
思ひきや戦やめるけふの日に生きえて我の尚ほ在らむとは
思ひきやげに思ひきや一兵も残さぬ国にわれ生きむとは
忽ちに風に木の葉の散る如く軍部の猛者のしぼみゆくかな[#地から1字上げ]九月五日
何事も一朝にして顛倒し鬼は仏に非は善となる
生き給ふ甲斐こそあれや主義に生く八十八の咢堂先生(但し先生の言ふ所に一々賛成なるにはあらず)
五年をひそみゐたりし人たちの頭もたげて名の聞えくる
[#地から1字上げ]九月六日
[#ここから4字下げ]
雑詠
[#ここで字下げ終わり]
蚊帳つるも力乏しくものうくて蚊にさされつつ寝ねがてにしてをり
つぎつぎに歯は落ちくれど医者にさへ通ふ力もなくなりてをり
よくもまた痩せけるものか骨と皮九貫にも足らぬ身となりにけり[#地から1字上げ]九月六日
願はくは死ぬる夕を庵にて花にかこまれ香たきてあらむ
願はくは花にかこまれ小さなる庵に臥して世と分かれなむ
小さなるいほりに住みて大きなる饅頭ほほばり花見てあらな[#地から1字上げ]九月七日
われ死なば花を供へよ大きなる饅頭盆に盛りて供えよ
階段は山を攀づがに苦しかり今ひとへやの階下に欲しき
何よりも今食べたしと思ふもの饅頭いが餅アンパンお萩
死ぬる日と饅頭らくに買へる日と二ついづれか先きに来るらむ
雨ふれば雨もり月照れば月もる此のあばらやも壕にはまさるか
急変を好めるさがのわがためにうれしきかぎり世は急変す[#地から1字上げ]九月八日
さほどまで肉もさかなも思はねど饅頭のみは日に恋ひつのる
分厚なる黒餡つつむ饅頭にまされる味は世にあらじかし
ふるさとの焼き饅頭の黒餡のにほひこほしむ老病の身
仏壇に法事するとてうづたかく饅頭盛りし昔なつかし
[#地から1字上げ]九月九日
さ庭べに擬宝珠の花咲きいでて今年の夏もまた逝きにけり[#地から1字上げ]九月十日
今しばしいのちを許せ力をも今少したべわが造物主
今の時見す見す死んでたまるかい元気を出してまた振ひ立て[#地から1字上げ]九月十一日
[#ここから4字下げ]
平和来たり米国の日本管理始まる
[#ここで字下げ終わり]
次ぎ次ぎに拉致されてゆく高官の名を聞くだにも生ける甲斐あり
東条は最後になりても死にそこねアメリカ兵の輸血を受けぬ[#地から1字上げ]九月十二日
死にそこねアメリカ人に救はるる東条こそは日本のシムボル[#地から1字上げ]九月十五日
知恩院のゆふべの鐘の聞こゆなり久に絶えにしその鐘の音の[#地から1字上げ]九月二十日
[#ここから4字下げ]
雑詠
[#ここで字下げ終わり]
久しくもさかる花よと見てありし夾竹桃も今は老いけり
[#地から1字上げ]九月十三日
飽きるまで物|食《を》しに来よとよばれても行く力なき先生あはれなり
蝕める杖折れしがに腰くだけ這ひありく身とわれなりにけり
何事もまだきに来れ日を経なばいや待ちがてのわがいのちぞも
今一度旅にいでまく思へどもいねて旅する日はいつの日ぞ[#地から1字上げ]九月十五日
[#ここから4字下げ]
この数日疲労頗る著し。秀の言ふに、もはやとても電車にすら乗られうるからだにあらず、たとひ勧めらるるとも西賀茂などへ行かるべきかは、未練がましき挨拶をせず、かかる類の人の勧めは綺麗に辞退し、こころ静かに、気の向くままに、家の内にて起居しをるべしと。余之を聞いて洵にもつともの忠告なりと思ひ、かれこれ未練がましき夢を描き居たりしも、この際綺麗に諦めむと、心に定む。乃ち数首を得たり
[#ここで字下げ終わり]
日を経るも元の力はかへり来ずいざあきらめて家にこもらむ
むしばめる杖をれしがのうつせみの元にかへらむ力あらなくに
足腰も立たぬむくろとなり果てて夢なほ多きわがうらみかな
今ははやあきらめてよき時節なり長く生きよと君云ふなかれ[#地から1字上げ]九月十六日
[#ここから4字下げ]
雑詠
[#ここで字下げ終わり]
大風の吹きにしあとの遠山の濃きむらさきの色めづらけき[#地から1字上げ]九月十七日
さ庭べの擬宝珠の花折り来たりコップに活けて枕辺におく
秋の気はさはやかなれどやがて来ん冬の寒さの先づ気遣はる[#地から1字上げ]九月十七日
音痴なるわれにふさはし廚下にてあさゆふになくこほろぎの声
蚊の足と痩せにしすねに食ひ入りて血を吸ふ蚊あり九月のなかば
生きなむともがく心をすてしよりをしもの貪る心も消えぬ[#地から1字上げ]九月十九日
[#ここから4字下げ]
安井国手に贈る
[#ここから5字下げ]
今年九月に至り衰弱殆どその極に達し、今ははや終りならめと諦め居たりしに、計らずも安井国手来り診て、こは棄ておくべきに非ず、一切は余に任せよと云ひて、これまでは辱知の間柄にもあらざりしに、爾来日々来りて、注射及び投薬を施され、ために体力日に快方に向ふ。来診を乞ひても物を持ち行かざれば応ぜざるが多く、注射も患者より材料を提供せねばならぬ例少なからぬ今日、無報酬にてかかる恩恵を受くること、洵に有りがたき次第なり。乃ち喜びの余り短歌十首を作る
[#ここで字下げ終わり]
消えなむとするに任せしともしびに油さしつぐくすしの君は
風待たで消ゆるばかりにほそりゐし灯火のいままたもえつづく
今ははや終りならめと諦めてゐたりしいのち尚もつづくか
陋巷に窮死するにふさはしき我を棄てじと訪ひくる君はも
死ぬもよし生きなば更によからむと残りのいのち君に任せつ
来む春に逢はむ望もたえたりと諦めし日に君と逢ひけり
今更に為すある身にはあらねども恵みをうけて尚ほ生きてをり
生くとても為すこともなき老いの身は君の恵《めぐみ》の勿体なくして
願はくは君が恵みに力えてまた都門の外《と》にも出でばや
枯れ果てし老いらくの身も冬を経てまた来む春に逢ひ得なむかも[#地から1字上げ]十月十八日
[#ここから4字下げ]
病床雑詠
[#ここで字下げ終わり]
今ははや再び起たむ望みなしいざやしづかに死を迎へなむ
窓により外ながむればスタスタと道ゆく人のなほ羨まし
[#地から1字上げ]九月二十日
いざわれも閻魔王庁にまかりいで無条件の降服なさむ
われ生きてあらむ限りは生きてゐよとたらちねの母はせちにのらせども[#地から1字上げ]九月二十一日
知恩院の鐘が鳴るかやゆふぞらに遠く尾をひき消えてゆくなり
わが床を階下にうつし臨終の床となさばや今日より後は
[#地か
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