頭のみは日に恋ひつのる
分厚なる黒餡つつむ饅頭にまされる味は世にあらじかし
ふるさとの焼き饅頭の黒餡のにほひこほしむ老病の身
仏壇に法事するとてうづたかく饅頭盛りし昔なつかし
[#地から1字上げ]九月九日
さ庭べに擬宝珠の花咲きいでて今年の夏もまた逝きにけり[#地から1字上げ]九月十日
今しばしいのちを許せ力をも今少したべわが造物主
今の時見す見す死んでたまるかい元気を出してまた振ひ立て[#地から1字上げ]九月十一日
[#ここから4字下げ]
平和来たり米国の日本管理始まる
[#ここで字下げ終わり]
次ぎ次ぎに拉致されてゆく高官の名を聞くだにも生ける甲斐あり
東条は最後になりても死にそこねアメリカ兵の輸血を受けぬ[#地から1字上げ]九月十二日
死にそこねアメリカ人に救はるる東条こそは日本のシムボル[#地から1字上げ]九月十五日
知恩院のゆふべの鐘の聞こゆなり久に絶えにしその鐘の音の[#地から1字上げ]九月二十日
[#ここから4字下げ]
雑詠
[#ここで字下げ終わり]
久しくもさかる花よと見てありし夾竹桃も今は老いけり
[#地から1字上げ]九月十三日
飽きるまで物|食《を》しに来よとよばれても行く力なき先生あはれなり
蝕める杖折れしがに腰くだけ這ひありく身とわれなりにけり
何事もまだきに来れ日を経なばいや待ちがてのわがいのちぞも
今一度旅にいでまく思へどもいねて旅する日はいつの日ぞ[#地から1字上げ]九月十五日
[#ここから4字下げ]
この数日疲労頗る著し。秀の言ふに、もはやとても電車にすら乗られうるからだにあらず、たとひ勧めらるるとも西賀茂などへ行かるべきかは、未練がましき挨拶をせず、かかる類の人の勧めは綺麗に辞退し、こころ静かに、気の向くままに、家の内にて起居しをるべしと。余之を聞いて洵にもつともの忠告なりと思ひ、かれこれ未練がましき夢を描き居たりしも、この際綺麗に諦めむと、心に定む。乃ち数首を得たり
[#ここで字下げ終わり]
日を経るも元の力はかへり来ずいざあきらめて家にこもらむ
むしばめる杖をれしがのうつせみの元にかへらむ力あらなくに
足腰も立たぬむくろとなり果てて夢なほ多きわがうらみかな
今ははやあきらめてよき時節なり長く生きよと君云ふなかれ[#地から1字上げ]九月十六日
[#ここから4字下げ]
雑詠
[#ここで字下げ終わり]
大風の吹きにしあとの遠山の濃きむらさきの色めづらけき[#地から1字上げ]九月十七日
さ庭べの擬宝珠の花折り来たりコップに活けて枕辺におく
秋の気はさはやかなれどやがて来ん冬の寒さの先づ気遣はる[#地から1字上げ]九月十七日
音痴なるわれにふさはし廚下にてあさゆふになくこほろぎの声
蚊の足と痩せにしすねに食ひ入りて血を吸ふ蚊あり九月のなかば
生きなむともがく心をすてしよりをしもの貪る心も消えぬ[#地から1字上げ]九月十九日
[#ここから4字下げ]
安井国手に贈る
[#ここから5字下げ]
今年九月に至り衰弱殆どその極に達し、今ははや終りならめと諦め居たりしに、計らずも安井国手来り診て、こは棄ておくべきに非ず、一切は余に任せよと云ひて、これまでは辱知の間柄にもあらざりしに、爾来日々来りて、注射及び投薬を施され、ために体力日に快方に向ふ。来診を乞ひても物を持ち行かざれば応ぜざるが多く、注射も患者より材料を提供せねばならぬ例少なからぬ今日、無報酬にてかかる恩恵を受くること、洵に有りがたき次第なり。乃ち喜びの余り短歌十首を作る
[#ここで字下げ終わり]
消えなむとするに任せしともしびに油さしつぐくすしの君は
風待たで消ゆるばかりにほそりゐし灯火のいままたもえつづく
今ははや終りならめと諦めてゐたりしいのち尚もつづくか
陋巷に窮死するにふさはしき我を棄てじと訪ひくる君はも
死ぬもよし生きなば更によからむと残りのいのち君に任せつ
来む春に逢はむ望もたえたりと諦めし日に君と逢ひけり
今更に為すある身にはあらねども恵みをうけて尚ほ生きてをり
生くとても為すこともなき老いの身は君の恵《めぐみ》の勿体なくして
願はくは君が恵みに力えてまた都門の外《と》にも出でばや
枯れ果てし老いらくの身も冬を経てまた来む春に逢ひ得なむかも[#地から1字上げ]十月十八日
[#ここから4字下げ]
病床雑詠
[#ここで字下げ終わり]
今ははや再び起たむ望みなしいざやしづかに死を迎へなむ
窓により外ながむればスタスタと道ゆく人のなほ羨まし
[#地から1字上げ]九月二十日
いざわれも閻魔王庁にまかりいで無条件の降服なさむ
われ生きてあらむ限りは生きてゐよとたらちねの母はせちにのらせども[#地から1字上げ]九月二十一日
知恩院の鐘が鳴るかやゆふぞらに遠く尾をひき消えてゆくなり
わが床を階下にうつし臨終の床となさばや今日より後は
[#地か
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング