あなうれしとにもかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ
あなうれしうれしかりけり生きのびて戦やめるけふの日にあふ
いざわれも病の床をはひいでて晴れゆく空の光仰がむ
計らずも剣影見ざる国内《くにぬち》にわれ住み得るかいのちなりけり
昨日までおびえつ聞きし飛行機の爆音すらもなごみわたれり
運よくも物一つ焼けず怪我もせず戦やめるけふの日にあふ
大きなる饅頭蒸してほほばりて茶をのむ時もやがて来るらむ
いざわれもいのちをしまむながらへて三年四年は世を閲さなむ
けふの日を誰にもまして喜ぶは先生ならめと人は云ふなり
けふの日を喜ぶ権利もたす君喜びてませと人は云ふなり
思いきやいのちたもちてわれもまた今日の此の日に相逢はむとは

[#ここから4字下げ]
うれしきは(その三)
[#ここで字下げ終わり]
うれしきはガラス戸越して望月のさし入る夜半にふとめざむとき
うれしきは金色《コンジキ》なせる夕雲に仏の国を思ふとき
[#地から1字上げ]八月二十六日
うれしきはよきふみよくよみよき人のよきここ〔ろ〕ざしよくさとるとき[#地から1字上げ]八月三十日
うれしきは早暁起きて喞々《ショクショク》と秋の虫鳴く声を聞くとき
[#地から1字上げ]九月一日
うれしきは妻の作りしむしパンにあまきジャムを添へて食ふとき[#地から1字上げ]九月四日
うれしきは疲れをみせぬ老妻の風呂にもゆくと出でてゆくとき[#地から1字上げ]九月四日
うれしきはひねもす静かに坐りゐて思ふことうまく書き了へしとき[#地から1字上げ]九月十九日
うれしきはいろ紺青に晴れわたる秋晴の空を鳶とべる時
うれしきは秋晴の朝空高く有明月のまろきを見る時
うれしきは秋晴の空うちながめ縁に這ひでて陽にあたる時[#地から1字上げ]九月二十五日
うれしきは正直者の馬鹿を見る世に正直を押し通す人
[#地から1字上げ]十月二十七日

[#ここから4字下げ]
雑詠
[#ここで字下げ終わり]
今一度起き上がらなと思へども思ふにまかせぬわがよはひかな[#地から1字上げ]八月二十七日
動くこと好まぬさがのわれ老いて門《かど》の外《と》さへも出で得ずなりぬ[#地から1字上げ]八月二十八日
饅頭が欲しいと聞いて作り来と出だせる見れば餡なかりけり[#地から1字上げ]九月一日
天われにいのち許さば杖つきて半里をありく力をしむな
雨もりてバケツも桶も間に合はずはてはままよとあきらめにけり[#地から1字上げ]九月四日
近からば君がりゆきて茄子トマト腹に満つまで食べなむものを
近からばかた手にあまる大きなるトマト携へ訪ひ来んものを(以上二首小林輝次君の葉書を見て)
今やまたひなた恋ほしくなりにけりひなたに出でて蟻を見てをり
今日はまた力め[#「め」に「〔ぬ〕」の注記]けぬる如くにて為すこともなく枕してをり
余りにもからだだるくて腹が立ち思はず荒き声立てにけり[#地から1字上げ]九月七日

[#ここから4字下げ]
平和来たる(その二)
[#ここで字下げ終わり]
何も彼もやがては遂に焼けなむと諦めゐたる物みな残る
爆弾にもろ手失ひわかものの生き残れるは見るもかなしき
怪我もせず物も焼かれず生きのびて今日の日に遇ふ夢のごとくなり
満洲は支那にかへれりやがてまた大連立ちて吾子も帰らむ[#地から1字上げ]九月四日
思ひきや戦やめるけふの日に生きえて我の尚ほ在らむとは
思ひきやげに思ひきや一兵も残さぬ国にわれ生きむとは
忽ちに風に木の葉の散る如く軍部の猛者のしぼみゆくかな[#地から1字上げ]九月五日
何事も一朝にして顛倒し鬼は仏に非は善となる
生き給ふ甲斐こそあれや主義に生く八十八の咢堂先生(但し先生の言ふ所に一々賛成なるにはあらず)
五年をひそみゐたりし人たちの頭もたげて名の聞えくる
[#地から1字上げ]九月六日

[#ここから4字下げ]
雑詠
[#ここで字下げ終わり]
蚊帳つるも力乏しくものうくて蚊にさされつつ寝ねがてにしてをり
つぎつぎに歯は落ちくれど医者にさへ通ふ力もなくなりてをり
よくもまた痩せけるものか骨と皮九貫にも足らぬ身となりにけり[#地から1字上げ]九月六日
願はくは死ぬる夕を庵にて花にかこまれ香たきてあらむ
願はくは花にかこまれ小さなる庵に臥して世と分かれなむ
小さなるいほりに住みて大きなる饅頭ほほばり花見てあらな[#地から1字上げ]九月七日
われ死なば花を供へよ大きなる饅頭盆に盛りて供えよ
階段は山を攀づがに苦しかり今ひとへやの階下に欲しき
何よりも今食べたしと思ふもの饅頭いが餅アンパンお萩
死ぬる日と饅頭らくに買へる日と二ついづれか先きに来るらむ
雨ふれば雨もり月照れば月もる此のあばらやも壕にはまさるか
急変を好めるさがのわがためにうれしきかぎり世は急変す[#地から1字上げ]九月八日
さほどまで肉もさかなも思はねど饅
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング