る。されば社会問題の解決についても、消費者の責任が根本で、生産者の責任はやはり末葉たるを免れぬ。何ゆえというに、極端に論ずれば、元来物そのものにぜいたく品と必要品との区別があるのではなくて、いかなる物にてもその用法いかんによって、あるいは必要品ともなりあるいはぜいたく品ともなるからである。
たとえば米のごときは普通には必要品とされているけれども、これを酒にかもして杯盤|狼藉《ろうぜき》の間に流してしまえば、畳をよごすだけのものである。世の中に貧乏人の多いのは生活必要品の生産が足りぬためだという私の説を駁《ばく》して、貴様はそういうけれども、日本では毎年何千万石の米ができているではないかと論ぜらるるかたもあろうが、実はそれらの米がことごとく生活の必要を満たすために使用されているのではない。徳川光圀《とくがわみつくに》卿《きょう》の惜しまれた紙、蓮如《れんにょ》上人《しょうにん》の廊下に落ちあるを見て両手に取っていただかれたという紙、その紙が必要品たるに論はないけれども、いかなる必要品でも使いようによっては限りなくむだにされうるものである。たとえばまたかの自動車のごときは、多くの人がこ
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