字上げ](十月五日)
五の三
加藤《かとう》内閣ができるはずに聞いていたのが、急に寺内《てらうち》内閣が成立しそうなという話なので、平生当面の時事には無関心のこの物語の筆者も、ちょっとだまされたような気持ちがする。しかしそれはそれとして、私はこの物語の本筋をたどるであろう。
さて私が前回に葉切り蟻《あり》の話をしたのは、昆虫《こんちゅう》社会にもなかなか経済の発達した者がいるという事を示さんがためであった。わずかに一例をあげたにとどまるが、ただこの一例に徴するも、もしわれわれが太古野蛮の時代にさかのぼってみるか、または今日でも未開地方に住む野蛮人の状態について見るならば、ある方面ではかえってわれわれ人間の方が蟻などよりもだいぶ劣っているかと思われる事情があるのである。しかるにもかかわらず、今日われわれ人間の経済が次第に発達を遂げ、ついに今日のごとき盛観を呈するに至ったのは、実はその根底、その出発点において、ある有名なる特徴を有するがためである。今その特徴をなんぞやと問わば、そは道具の製造という事である。この事はかつて本紙に連載せし「日本民族の血と手」と題する拙稿(大正四年発行拙著『祖国を顧みて』に収む)の一部において、私のすでに言及したところである。私は学校の講義のように、今年もまた同じ事をここに繰り返したくはないけれども、ただいかんせん這個《しゃこ》の一論は、私の経済論の体系の一部を成すもので、これに触れずして論を進むるは事すこぶる困難なるを覚ゆるがままに、しばらく読者の寛恕《かんじょ》を請うて再び同一の論を繰り返す。ただしなるべく化粧《けしょう》を凝らして、人目につかぬようそっとこの坂道を通り越すであろう。
そこで話を遠い遠い昔の、今より推算すれば約五十万年前の古《いにしえ》にかえす。そのころジャバに猿《さる》に似た一人の人間――私はかりに人間と名づけておく――が住んでいた。無論一人で住んでいたわけではなく、仲間もたくさんいたことであろうが、ただ一人だけのことしか今日ではわからぬ。もっともその一人の人について言っても、その人がはたしてどんな暮らしをしたか、どんな事を考えていたか、女房がいたか、子供がいたか、そんな事は少しもわかっていないが、ただそういう一人の人がいたということだけは確かにわかっている。それは今から二十余年前、一八九一年にオランダの軍医デュブアという人が中央ジャバのベンガワン川に沿うて化石の採集をしていたころ、トリニルという所の付近で、たくさんの哺乳《ほにゅう》動物の遺骨の中から一本の奥歯を発見したのであるが、それがすなわち先に言うところの五十万年前の人間が遺《のこ》して死んだ臼歯《うすば》の一|片《きれ》である。そこでデュブア氏はなおていねいに土を掘ってゆくと、先に奥歯の発見された所から約三尺ばかり隔てた場所で頭蓋骨《ずがいこつ》の頂《いただき》を発見した。それからさらに引き続き発掘をしていたところが、今度は頭蓋骨の発見された所から八|間《けん》あまり隔てた場所で、左の大腿骨《だいたいこつ》と臼歯をもう一本だけ発見したのである。
くわしいことは私の専門外だから略しておくが、これが今日人間といえばいい得らるる者のいちばん古い遺骨であって、学問上ではこの人間を名づけてピテクァントロプス(猿《さる》の人)といっているそうである。しかしこれがはたして今日の人間の直系の祖先に当たるものか否かについては議論があるが、ともかく大腿骨が出たので、その構造から考えてみて、この猿の人なるものは直立していたということはわかるし、また頭蓋骨の一部が出たので、その者の脳髄も相当に発達していたということもわかる。元来われわれ人間が道具を造り出しうるに至ったのは、われわれが直立して二本の足で楽にからだをささえうるようになってからの事である。すでにからだがまっすぐになって来ると、それに伴うて二本の手が浮いて来て、全く自由なものになると同時に、頭がからだの中心に位することになって、始めて脳髄が充分な発達を遂げうるのである。――獸《けだもの》のように四つ足を突いて首を前に出していては、到底重い脳みそを頭の中に入れておられるはずのものでない。猩々《しょうじょう》、猿の人、曙《あけぼの》の人(後に述ぶ)、現代人と、だんだん姿勢が直立して来るに従って、脳髄も次第に大きくなって来るありさまは、ここに挿入《そうにゅう》せる図によりてその一斑を知らるべし。――そこでその発達した脳髄でもって自由な手を使うことになったから、始めて人間特有の道具の製造が始まるのであるが、今この猿の人なるものがはたして道具を造っていたか否かに至っては、別に確かな証拠はないが、たぶん木及び石でできたきわめて幼稚な道具を使っていただろうというのが、オスボー
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