ぶるいとまをもたぬが、またその必要もない。一言にして言えば七十歳以上の老人には国家に向かって一定の年金を請求するの権利ありと認めたること、これがこの法律の要領である。原案には六十五歳とありたれども、経費の都合にてしばらく七十歳と修正されたのである。今この法律についてわれわれの特に注意すべき点は、年金を受くることをば権利として認めたことである。人は一定の年齢に達するまで社会のために働いたならば、――農夫が五穀を耕作するは自分の生活のためなれども、しかしそのおかげで一般消費者は日々の糧《かて》に不自由を感ぜざることを得《う》る、鉱夫の石炭を採掘するもまた自己の生活のためにほかならざれども、しかしそのおかげでわれわれは機械を動かし汽車を走らせなどすることを得る、この意味において、夏日は流汗し冬日は亀手《きしゅ》して勤苦《きんく》労働に役《えき》しつつある多数の貧乏人は、皆社会のために働きつつある者である、――年を取って働けなくなった後は、社会から養ってもらう権利があるという思想、この思想をこの法律は是認したものなのである。それゆえ、たとい年金を受くるも、法律はその者を目して卑しむべき人となさず、またなんらの公権を奪うことなし。これ従来の貧民|救恤《きゅうじゅつ》と全くその精神を異にするところにして、かかる思想が法律の是認を経《ふ》るに至りたる事は、けだし近代における権利思想の一転期を画すべきものである。年金を受くる資格ある者は、年収入三十一ポンド十シリング(約参百拾五円)に達せざる者にして、その受くるところの年金額は収入の多少によりて等差あれども、年収入二十一ポンド(約弐百拾円)に満たざる者は、すべて一週五シリング(一個月拾円余)の割合にてその年金を受く。これがこの法律の規定の大要である。[#地から1字上げ](十月二日)

       四の二

 私は英国近時における社会政策の一端を示さんがため、先に小学児童に対する食事公給条例のことを述べ、今また養老年金条例のことを述べおえた。私はなおこれ以上類似の政策を列記することを控えるが、言うまでもなくこの種の施設はいずれも少なからざる経費を必要としたもので、現に養老年金の一例に徴するも、一九〇七年の実数によれば、当時七十歳以上の老人は全国において百二十五万四千人あり、かりにすべてこれらの者に一週五シリングずつを支払うとせんか、その経費の総額は一個年実に壱億六千参百余万円の巨額に達するの計算であった。これ英国近時の財政が急に膨脹せざるを得ざるに至りしゆえんであって、現に一九〇八年度の予算編成に当たっては、主として海軍拡張及び養老年金法実施のため約壱億五千万円の歳入不足を見るに至ったものである。ここにおいてか時の大蔵大臣ロイド・ジョージはやむを得ず一大増税計画を起こし、土地増価税、所得税、自動車税、煙草税《たばこぜい》等の新設または増徴を企てたものである。ただその課税おのずから富者に重かりしがゆえに、当時の予算案は議会の内外において騒然たる物論を惹起《じゃっき》し、ついにはローズベリー卿《きょう》をして「宗教も、財産権も、また家族的生活も――万事がすべて終わりである*」と絶叫せしむるに至ったものである。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* It is the end of all things−−religion, property, and family life.
[#ここで字下げ終わり]
 ロイド・ジョージ氏がかの有名なる歴史的の大演説を試みたのは、実にその時である。当時彼が前後四時半にわたる長い長い演説をまさに終わらんとするに臨み、最後に吐いた次の結語は、これまで私の述べきたった諸種の事情を背景として読む時は、多少当時の光景を活躍せしむるに足るのみならず、また時務を知るの俊傑がいかに貧乏を見つつあるやを知るの一助たるべしと思うがゆえに、――過月氏が軍需大臣より陸軍大臣に転任したるおり、すでに一たびこれを引用したるにかかわらず、――余は本紙の編集者び読者諸君が、余をして重ねてここにこれを訳載するの自由を有せしめられん事を懇望する。その語にいわく
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「さて私は、諸君が私に非常なる特典を与えられ、忍耐して私の言うところに耳傾けられたことを感謝する。実は私の仕事は非常に困難な仕事であった。それはどの大臣に振り当てられたにしても、誠に不愉快な仕事であったのである。しかしその中に一つだけ無上の満足を感ずることがある。それはこれらの新たなる課税はなんの目的のために設けられたかということを考えてみるとわかる、けだし新たに徴収さるべき金は、まず第一に、わが国の海岸を何人にも侵さしめざるようこれを保証することのために費やさるべきものである。それと同時に、これらの金はまた
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