乏人の子は国家がこれを引き取り、親に代わって養って行くことにしたという事は、私が前回に述べたところであるが、由来個人主義の本場として、自由放任を宗旨となし、国家は個人の私事にできうるだけ立ち入らぬことを国風としている英国において、今かくのごとき法律の発布を見るに至りたる事は、一葉落ちて天下の秋を知るとやいわん、実に驚くべき時勢の変である。
 日本では、大阪《おおさか》なり神戸《こうべ》なりからちょっと四国へ渡るにも、船に乗れば、私たちは必ず船員から姓名、住所、年齢等をきかれる。もし旅から旅へ流浪《るろう》したならば、一泊するごとに、至る所の宿帳へ、やはり同じような事を一々記録して行かねばならぬ。かかる干渉主義の国がらに育った私は、往年初めてロンドンに入った時、ホテルに泊まろうが、下宿屋に住もうが、どこへ行ったとて、姓名も国籍も何一つかつて届けいずる必要なきを見て、いささか意外の感をいだいた者である。平時の英国は、書生が来ようが商人がはいろうが、美人でも醜婦でも、学者でも泥棒でも、出入全く自在でさながら風の去来し雲の徂徠《そらい》するに任せあるがごとくである。ロンドンにしばらく住まったのち、私は同僚のK君と南方の農村に移ったことがある。異郷の旅に流浪する身は、別にしかたがないから、蝸牛《かたつむり》の旅のよう全財産を携えながら、わずかとはいえそれでもトランクやスーツ・ケースに相応の荷物を納め、なにがしの停車場《ステーション》より汽車に乗り込んだものである。行けども行けども山は見えず、日本と同じ島国とはいえ、その地勢の著しく相違せるを珍しく思いながら、進み行くほどに、やがてなにがしという駅に着く。ここでわれわれは乗り換えなければならぬのであるが、その時私の驚いたのは、ロンドンの停車場《ステーション》ですでに汽車に預けてしまった荷物も、乗り換えの時には旅客が各自に自分の荷物は自分で注意して、乗り換うべき列車の方へ持ち運ばなければならんという事であった。日本などでは、一たん荷物を預け入れてさえおけば、あとは途中何度乗り換えをしても、預けただけの荷物はなんの気づかいなしに、ちゃんと目的地まで運送されているのだが、英国ではそうはゆかぬのである。見れば多くの旅客は勝手に貨車の中にはいり込んで、軽い貨物はさっさと自分で持って逃げる。重いトランク類を持った者は、赤帽を呼んで来て(赤帽といっても、赤い帽子をかぶっているのではない、手荷物運搬夫は英国では赤いネキタイをやっているようである)、これとこれとが自分のだから何々行きの列車に持ち込んでくれと、それぞれ自分でさしずをするのである。全然自由放任だが、それで荷物が紛失もせず間違いもせず諸事円満に運んで行くのならば、英人の自治能力もまた驚くべしといわなければならぬ。もう少し油断すると、私らの荷物はとんでもない方面へ運送されてしまうところであったが、幸いに早く気づいたので、別に失態も演ぜず、無事に列車を乗り換え、三等室の一隅《いちぐう》に陣取りながら、私は始めて each for himself(おのおの彼自らに向かって)というかねてから日本語にはうまく訳しにくいと思っていたこの一句を思い出したわけである。
 げに英国は each for himself の国である。しかるに今この英国において、子供の養育というがごときことに家庭の自治に一任しおくべきようなる問題に国家が立ち入り、公共の費用でこれをまかなって行くことにしたというのは、ひっきょうこの国の政治家が貧乏が国家の大病たることを、いかにも痛切に認めきたりし証拠だといわねばならぬ。[#地から1字上げ](九月二十八日)

       三の六

 五重の塔を建てんとする人は、まずその土台を丈夫にしなければならぬ。花を賞せんとする者は、必ずその根につちかうことを忘れてはならぬ。肉体の欲望は人間の欲望の中でいちばん下等で、なかんずく色食《しきしょく》の二欲は最も低級のものであるが、しかしそれらのものが下層のものであればあるだけ、一般民衆をしてこれを適当に満足せしむることは、やがて社会の基礎を固くし、国家の根本を養うゆえんである。私はこの意味において、かの食物公給条例を制定せし英国経世家の所業を賢なりとすると同時に、わが国においても、せめては大都会の貧民区に、さしあたっては私人の慈善事業としてなりとも、早くこの種の施設の実現さるるに至らんことを切望する者である。食物公給条例が英国の下院議場において問題となりし時のウィルソン氏の演説の結語、「人あるいはかかる事業はよろしくこれを私人の慈善事業に委《い》すべしと主張するかもしれぬが、私はこのたいせつな事業を私人の慈善事業に一任せしこと業《すで》に已《すで》に久しきに失したと考える、私は満場の諸君が、人道及びキリ
前へ 次へ
全59ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング