ゥ分の子孫があすにも餓死せぬとも限らぬ」という事情の下に置かれおる以上、利他奉公の精神の大いに発揚せらるるに至らざるもまたやむを得ざることである。
 私は先に、利己主義(個人主義)者を組織するに利他主義(国家主義)の社会組織をもってするは、石を包むに薄帛《うすぎぬ》をもってするがごときものだと言った。しかしそれならば、個人の改良を待ってしかるのち社会組織の改造を行なうべきであるかというに、以上述べきたりしごとく、個人の改造そのものがまた社会組織の改良にまつところがあるのだから、議論をそう進めて来ると、たとえば鳶《とび》が空を舞うように、問題はいつまでも循環して果てしなきこととなる。しかしこの因果の相互的関係の循環限りなきがごときところに、複雑をきわむる世態人情の真相がある。それゆえ私は、社会問題を解決するがためには、社会組織の改造に着眼すると同時に、また社会を組織すべき個人の精神の改造に重きを置き、両端を攻めて理想郷に入らんとする者である。
 思うに恒産なくして恒心を失わず、貧賤に素《そ》しては貧賤に処し、患難に素しては患難に処し、いっさいの境に入るとして自得せざるなきは君子のことである。志ある者はよろしく自らこれを責むべし、しかもこれをもっていっさいの民衆を律せんとするは、薪《たきぎ》を湿《しめ》してこれを燃やさんとするがごときもの、経世の策としてはすなわち一方に偏するのそしりを免れざるものである。されば悪衣悪食を恥ずる者はともに語るに足らずとなせし孔子も、子貢の政《まつりごと》を問うに答えてはすなわちまず食を足らすと述べ、孟子《もうし》もまた、民の産を制して、楽歳に身を終うるまで飽き、凶年にも死亡を免れしめ、しかるのち駆《か》って善にゆかしむるをもって、明君の政なりと論じているのであって、私が今、社会問題解決の一策として経済組織の改造をあぐるもまた同じ趣旨である。
 しかしながら、丈夫な土台を造らなければ立派な家はできぬということはほんとうであっても、丈夫な土台さえできたならば立派な家が必ずできるというわけのものではない。人はパンなくして生くるあたわず、しかしながら人はパンのみにて生くる者にもあらず。それゆえ孟子は、恒産なくんば因って恒心なしとは言ったが、恒産ある者は必ず恒心ありとは言っておらぬ。否孟子は、恒産なくんば因って恒心なしということを言い出す前に、「民の若《ごと》きは則《すなわ》ち」と付け加えており、なおその前に「恒産なくして恒心ある者は惟《ただ》士のみ能《よ》くするを為《な》す」と言っておる。しかして世の教育に従事する者の任務とするところは、社会の事情、周囲の風潮はいかようであっても、それに打ち勝ちそれを超越して、孟子のいわゆる「恒産なくして恒心ある」ところの「士」なるものを造り出すにある。
 実はそういう人間が出て社会を指導して行かねば、社会の制度組織も容易に変わらず、またいかに社会の制度や組織が変わったとて、到底理想の社会を実現することはできぬと同時に、そういう人間さえ輩出するならば、たとい社会の制度組織は今日のままであろうとも、確かに立派な社会を実現することができて、貧乏根絶というがごとき問題も直ちに解決されてしまうのである。この意味において、社会いっさいの問題は皆人の問題である。
 さて論じきたってついに問題を人に帰するに至らば、私の議論はすでに社会問題解決の第三策を終えて、まさに第一策に入ったわけである。[#地から1字上げ](十二月十二日)

       十二の一

[#ここから2字下げ]
「さんらんの翡翠《ひすい》の玉の上におく
つゆりょうらんの秋はきにけり
「秋ふかみこごしく雨の注げばか
こころさぶしえとどまりしらず
[#ここで字下げ終わり]
 きょう友人がくれた手紙の端にはかような歌がしるしてあった。げに心に思うことども次々に語りゆくうちに、いつしか秋もいよいよ深うなった。この物語を始めたおりは、まだ夏の盛りを過ぎたばかりで、時には氷を呼んだこともあったが、今ははや炉に親しむの季節となった。元来が分に過ぎた仕事であったために、やせ馬が重荷を負うて山坂を上るよう、休み休みしてようやくここまでたどって来たが、もうこれで峠も越した。これよりはいっそ[#「いっそ」に傍点]のこと近道をして早くふもとにおりようと思う。
 私は、前回において、私の議論はすでに社会問題解決の第三策を終えて、まさに第一策に入ったと言った。論思いのほか長きに失し、読者もまたすでに倦《う》まれたるべしと信ずるがゆえに、余のいわゆる第二策は、論ぜずしてこれをおくつもりなのである。――第二策とは「貧富の懸隔のはなはだしきを匡正《きょうせい》し、社会一般人の所得をして著しき等差なからしむること」で、いわゆる社会政策なるものの大半はこれに
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