各自の利益を追求することを是認し、これになんらの束縛を加えず、自然のままにこれを放任することによりて、始めて社会の繁栄を期し、最大多数の幸福を実現するを得《う》べしとしたのである。しかしてかの経済上における自然主義、楽天主義、自由主義、個人主義ないし自由競争主義等、およそ英国正統経済学派の特徴と見なすべき許多の色彩は、多くは皆|如上《じょじょう》の根底より発しきたれるものである。
 スミス論じていわく「人間はほとんど絶えず他人の助力を必要とするが、しかしただ単に他人の恩恵によりてこれを得んとするも、決してその望みを達することはできぬ。これに反し、もしこれを他人の自利心に訴え、自己が他人に向かって要求するところのものを、他人が自己のためになしくるるは、すなわち彼ら自身の利益なることを知らしむるならば、容易にその目的を達し得らるるであろう。……われわれの飲食物は、肉屋、酒屋、パン屋等の恩恵にまつにあらずして、ただ彼らが彼ら自身の利益を重んずるがためにととのえらるるのである。われわれは彼らの慈善心に訴うるにあらず、ただ彼らの自利心に訴う。われわれは彼らに告ぐるに、決してわれわれ自身の必要をもってするにあらずして、ただ彼らの利益をもってするのみである。」(『国富論』キャナン校訂本、巻一、一六ページ*)。
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* Wealth of Nations, Cannan's ed., vol. 1, p. 16.
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 彼はかくのごとく、産業上社会万般の経営は皆これを各個人の利己心の活動にまつと観ぜしがゆえに、経済政策上においては、一二の例外を除くのほか、すべて官業に反対して民業を主張し、保護干渉に反対して自由放任を主張したものである。すなわち論じていわく「さればいっさいの保護干渉を取り去り、かくて自然的自由という明白簡単なる制度をして自然に樹立するところあらしめよ。しかしてこの制度の下においては、各人は、正義の法を犯さざる限り、自己の欲するがままにおのれ自らの利益を追求し、各個人は、他の何人の事業及び資本に対しても、自己の事業及び資本をもって競争することにつき全然その自由に放任さるるであろう。」(同上巻二、一八四ページ)。
 私はスミスの思想についても、これをここに詳しく語るの余裕を有せぬが、わが賢明なる読者は、以上掲げし一二の抄録によって、その個人主義のほぼいかなるものなるかを推知せらるるであろう。
 思うに個人主義、放任主義の広く人心を支配すること久し。しかれども、今や『国富論』の公刊をさることまさに百四十年、たまたま世界|未曾有《みぞう》の大乱起これるを一期として、諸国の経済組織はまさにその面目を一変せんとしつつある。
 これそもそも何がゆえぞ。吾人《ごじん》にしてもし個人主義の理論的欠陥を知るを得ば、おのずから時勢の変のもとづくところを知るを得ん。請う吾人をしてその一斑を説くところあらしめよ。
[#地から1字上げ](十一月三十日)

       九の六

 余ひそかに思うに、アダム・スミスの誤謬《ごびゅう》の第一は、氏自ら「経済学の大目的は一国の富及び力を増加するにあり」(『国富論』キャナン校訂本、巻一、三五一ページ)と言えるによっても明らかなるがごとく、もっぱら富の増加を計ることのみをもってすなわち経済の使命なりとなせし点である。けだし富なるものは元来人生の目的――人が真の人となること――を達するための一手段にほかならざるがゆえに、その必要とせらるる分量にはおのずから一定の限度あるものにて、決して無限にその増加を計るべきものではない。これと同時に、これを社会全体より見れば、富の生産が必要なると同じ程度において、その分配が当を得ていることが必要である。もしその分配にして当を得ず、ある者は過分に富を所有して必要以上にこれを浪費しつつあるにかかわらず、ある者ははなはだしくその必要を満たすあたわざるの状態にありとせば、たとい一国全体の富はいかに豊富に生産されつつあるも、もとより健全なる経済状態といい難きものである。しかも富の生産をばその分量及び種類に関しこれを必要なる程度範囲に限定し、かつその分配をして最も理想的(平等というと異なれり)ならしめんとするがごときことは、現時の経済組織をそのままに維持し、すべての産業を民業にゆだね、かつ各事業家をしてもっぱら自己の利益を追求するがままに放任しおきたるのみにては、到底その実現を期しうべきものではない。
 アダム・スミスの誤謬《ごびゅう》の第二は、貨幣にて秤量《ひょうりょう》したる富の価値をば、直ちにその人生上の価値の標準としたことである。氏は一国内に生産せらるる貨物の代価を総計した金額が多くなりさえすれば、それが社会の繁栄であって、
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