学者の手を経て、ついにアダム・スミスに伝えられた。
 アダム・スミスはもとグラスゴー大学の道徳哲学《モーラルフィロソフィー》の教授であったが、のち職を辞して仏国に遊び、それより帰国ののちは、自分の郷里なるスコットランドの小都市カーコゥディーに蟄居《ちっきょ》し、終生ついに妻を迎えず、一人の老母とともに質素平和の生活を営みつつ、黙々として読書思索に没頭すること幾春秋、ようやく一七七三年の春になって、彼は一巻の草稿をふところにしてロンドンに向け出発した。しかしてこの草稿こそ、その後さらに三個年間の増補訂正を経、一七七六年三月九日始めて世に公にさるるに至ったところの有名なる『国富論《ウエルス・オブ・ネーションズ》』であって、わが経済学はまさにこの時をもってこれとともに生まれたものである。
 スミスが仏国遊学後、自分の郷里なる田舎町《いなかまち》のカーコゥディーに引っ込んで送り得た約六年の歳月は、外から見ては誠に平静無事な六年であったが、彼自身にとっては実に非常なる大奮闘の時代であって、すなわち彼はこの間においてその肉を削りその血を絞りつつ、彼が終生の大著たる『国富論』の完成に熱中したのであった。されば稿ようやく成るののち、一七七三年の春、これをふところにしてロンドンに向かって立つや、彼は精力気力すでにことごとく傾け終えたるがごとき気持ちであった。その時彼は、ロンドンにたどり着く途中、いつどこの客舎で死ぬかもしれぬと思ったほど、気力の衰えを感じたのである。されば彼がまさにロンドンに向かって出発せんとせる時、同年三月十六日の日付をもって、エディンバラより友人ヒュームにあてたる手紙の中には、万一の場合の後事を委託し、かつ「もし私がきわめて突然に死ぬるような事のない限り、私は今私の持っている原稿をば(それがすなわち『国富論』の原稿である)間違いなくあなたに送らすように注意するつもりである」とさえ言ってあるのである。
 私はスミスの伝を読んでこれらの章に至るごとに、古人の刻苦力を用うるの久しくしてかつ至れる、その勝躅《しょうちょく》遺蹤《いしょう》、大いにもって吾人《ごじん》を感奮興起せしむるに足るあるを磋嘆《さたん》するに耐えざる者である。しかしこの年代におけるスミスの衰弱の原因については、私は久しく多少の疑いをたくわえていた。元来スミスは蒲柳《ほりゅう》の質であった、それが数年間引き続いて過度の勉強思索にふけったのであるから、はなはだしくその健康を害するに至ったのは、自然のなりゆきのようでもあるが、しかしそれにしても、彼は当時毎年充分の年金を得ていて、衣食のためにはかつて心を労する必要がなかった上に、おいおい年をとって来たとはいえ、ロンドンに向かって出発する時はまさに五十歳に過ぎなかったのである。いくら過度の勉強思索にふけったとはいえ、旅中にいつ死ぬかもしれぬと感ずるまでに弱り果てたというのは何ゆえであるか。これがすなわち私の疑問であって、私はこれに一応の解釈はつけながら、今日までなお充分の満足を得ざりし者である。しかるに近ごろになって私はようやくこの疑問を全く氷釈し得たるがごとくに思う。
 けだしスミスは元来倫理学者である。その倫理学者が倫理学者として経済問題の攻究に従事しておるうちに、彼は経済上における利己心の活動を是認することにより、ある意味において、経済上におけるいっさいの人の行為を倫理問題の埒外《らちがい》に推し出したものである。かくて彼は倫理学以外に存立しうる一個独立の科学としてわが経済学を建立し、自らその初祖となったものである。すなわちカーコゥディーにおける蟄居《ちっきょ》六年間の彼の仕事は、倫理学者としての殻《から》を打ち割り、自己多年の面目を打破し、自己の力により自己の身を化して有史以来いまだかつて有らざりしところの全く新たなる種類の学者たる経済学者なるものを産み出さんがための努力であったのである。この意味においてアダム・スミスはわが経済学の創設者である。正統経済学の第一祖である。
[#地から1字上げ](十一月二十九日)

       九の五

 アダム・スミス以前にも、貨幣、商業及び土地の改良等につき有力なる論著は少なからずあった。しかしながら、これらのものは皆当面の事件をただ時事問題として取り扱ったのであるから、いずれも一時的のかつ離れ離れの、相互の間になんらの連絡統一なきものであった。それをばスミスは利己心是認の思想をもって連絡統一し、これに向かって組織的の解釈を下したので、それが彼の生命の大半を奪った仕事であった。しかし彼自身の生命が失われたために、死んだ離れ離れの材料に生命が流れて、始めて経済学という一個独立の学問が産まれたのである。彼が今日に至るもなお経済学の父と呼ばるるはこれがためである。
 彼は各個人が
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