といっても、赤い帽子をかぶっているのではない、手荷物運搬夫は英国では赤いネキタイをやっているようである)、これとこれとが自分のだから何々行きの列車に持ち込んでくれと、それぞれ自分でさしずをするのである。全然自由放任だが、それで荷物が紛失もせず間違いもせず諸事円満に運んで行くのならば、英人の自治能力もまた驚くべしといわなければならぬ。もう少し油断すると、私らの荷物はとんでもない方面へ運送されてしまうところであったが、幸いに早く気づいたので、別に失態も演ぜず、無事に列車を乗り換え、三等室の一隅《いちぐう》に陣取りながら、私は始めて each for himself(おのおの彼自らに向かって)というかねてから日本語にはうまく訳しにくいと思っていたこの一句を思い出したわけである。
げに英国は each for himself の国である。しかるに今この英国において、子供の養育というがごときことに家庭の自治に一任しおくべきようなる問題に国家が立ち入り、公共の費用でこれをまかなって行くことにしたというのは、ひっきょうこの国の政治家が貧乏が国家の大病たることを、いかにも痛切に認めきたりし証拠だといわねばならぬ。[#地から1字上げ](九月二十八日)
三の六
五重の塔を建てんとする人は、まずその土台を丈夫にしなければならぬ。花を賞せんとする者は、必ずその根につちかうことを忘れてはならぬ。肉体の欲望は人間の欲望の中でいちばん下等で、なかんずく色食《しきしょく》の二欲は最も低級のものであるが、しかしそれらのものが下層のものであればあるだけ、一般民衆をしてこれを適当に満足せしむることは、やがて社会の基礎を固くし、国家の根本を養うゆえんである。私はこの意味において、かの食物公給条例を制定せし英国経世家の所業を賢なりとすると同時に、わが国においても、せめては大都会の貧民区に、さしあたっては私人の慈善事業としてなりとも、早くこの種の施設の実現さるるに至らんことを切望する者である。食物公給条例が英国の下院議場において問題となりし時のウィルソン氏の演説の結語、「人あるいはかかる事業はよろしくこれを私人の慈善事業に委《い》すべしと主張するかもしれぬが、私はこのたいせつな事業を私人の慈善事業に一任せしこと業《すで》に已《すで》に久しきに失したと考える、私は満場の諸君が、人道及びキリ
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