Hunter, Ibid., p. 1.
[#ここで字下げ終わり]
げに露国の一貴族としてその名を世界にはせしトルストイにとっては、自発的貧乏のほか味わうべき貧乏はあり得なかったのである。
遠くさかのぼれば、昔|慧可大師《えかだいし》は半臂《はんぴ》を断《た》って法《のり》を求め、雲門和尚《うんもんおしょう》はまた半脚を折って悟《ご》に入った。今かかる達人の見地よりせば、いわゆる道のためには喪身失命《そうしんしつみょう》を辞せずで、手足《しゅそく》なお断つべし、いわんやこの肉体を養うための衣食のごとき、場合によってはほとんど問題にもならぬのである。しかしかくのごときは千古の達人が深く自ら求むるところあって、自ら選択して飛び込んだ特種の境界《きょうがい》である。もしわれわれ凡夫がへたに悟ってしいて大燈国師のまねをして、相率いて乞食《こじき》になったり、慧可・雲門にならって皆が臂《ひじ》を切ったり脚《あし》を折ったりした日には、国はたちまちにして滅びてしまうであろう。
思うに貧乏の人の身心に及ぼす影響については、古来いろいろの誤解がある。たとえば艱難《かんなん》なんじを玉にすとか、富める人の天国に行くは駱駝《らくだ》の針の穴を通るより難《かた》しとかいうことなどあるがために、ややもすれば人は貧乏の方がかえって利益だというふうに考えらるる傾きがある。古い日本の書物にも「金持ちほど難儀な苦の多きものはない、一物有れば一累を増すというて、百品持った者より二百品持ったものは苦の数が多い」など言うてあるが、現に一昨昨年(一九一三年)にはスイス国でいちばん金持ちであった夫婦者が、つくづくなんの生きがいもない世の中と感じたというので、二人がいっしょに自殺を遂げたこともある*。だから人間というものは心の持ちよう一つで、場合によっては大小さして威張っている侍よりも、橋の下に眠《ねぶ》っている乞食《こじき》の方がかえって幸福だ、というような説も出るのであるが、私だって金持ちになるほど幸福なものだと一概に言うのでは決してない。しかし過分に富裕なのがふしあわせだからといって、過分に貧乏なのがしあわせだとは言えぬ。繰り返して言うが、私のこの物語に貧乏というのは、身心の健全なる発達を維持するに必要な物資さえ得あたわぬことなのだから、少なくとも私の言うごとき意味の貧乏なるものは、その観念自身か
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