ナ字下げ終わり]
 ロイド・ジョージ伝の著者エヴァンスまたこの一句を引ききたっていう、「かかる絵に筆を入れて細かく描き足そうとするならば、かえってそれをよごすばかりである」と。されば私も、あわれなる靴屋《くつや》の主人が当時いかに苦心したかについて、もはやこれ以上は語らぬであろう。
 古人も至誠にして動かざる者はいまだこれあらざるなりと言っているが、げに至誠の力ほど恐ろしき者は世にあらじ。博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久《ゆうきゅう》疆《かぎ》りなし。見よ、貧しき靴屋の主人の至誠は凝って大英国の大宰相を造り出し、しかしてこの大宰相の大精神はやがて四海万国を支配せんとする事を。
 伝え聞く、ロイド・ジョージの始めて大蔵大臣に任ぜられ、居をドウニング街の官邸に移すや、彼はその衷情を吐露していう。「余の親愛する老叔父《ろうおじ》は、その平素目して大英雄となせるグラッドストーンのかつて住まいしことあるこの官宅にきたって滞留することを、必ずや一代の面目となして大いに喜ぶであろう」と。今やそのロイド・ジョージがこの軍国多事の際に当たって、とうとう総理大臣となったのである。私はしるしきたって彼を思いこれを思う時、筆を停《とど》めて落涙するを禁じ得ざる者である。[#地から1字上げ](大正六年一月九日)

       二の二

 私は繰り返す。――現代世界の政治家中ロイド・ジョージは私の最も好きな政治家である、けだし彼は弱者の味方である。ことに彼は不幸なる弱者が無慈悲なる強者のために非道の圧制に苦しむを見る時は、憤然としておのれが面《おもて》に唾《つばき》せられたるがごとくに嚇怒する。しかしてこの強者をおさえかの弱者をたすくるがためには、彼はほとんどおのれが身命の危うきを顧みざる人である。
 思うに最もよく彼の人物を見るに足るものは、南ア戦争当時における彼の態度である。
 苦学の結果幸いにして弁護士となり得たる彼は、のち選ばれて代議士となる。代議士となりてより数年後、彼の一生にとりて一大事件と見なすべきものは、南ア戦争の爆発である。
 南ア戦争とは、英国がアフリカの南端トランスヴァールの金鉱を獲得せんがために、ブーア人を相手に起こした戦争である。ロイド・ジョージ思えらく、こは資本家の貪欲《どんよく》を満たさんがために起こされたる無名の師である。世界最大の強国たる英国が、「ウェー
前へ 次へ
全117ページ中111ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング