A生死《しょうじ》代謝《たいしゃ》の際に臨みて一偈《いちげ》を賦するに当たり、偈中に「曹源《そうげんの》一|滴水《てきすい》、一生用不尽《いっしょうもちうれどもつきず》」の一句をのこされたのもこれがためであるという。
話が自然に横道にそれたきらいがあるが、しかし私がここにこれらの話を引き合いに出してきたのはほかでもない、裏棚《うらだな》に住まう労働者でも水道の水などはずいぶんむだに浪費しうるのであるが、それもやはり一種のぜいたくだということを、読者に考えていただきたいためのみである。私は今一々その場合を例示せぬけれども、おそらく多数の読者は、「私のいう意味のぜいたくは、多少の差こそあれ、金持ちも貧乏人も皆それ相応にしていることである」という私の先の断案をば、否認せらるる事はあるまいと思う。[#地から1字上げ](十二月二十日)
十二の六
私は議論を公平にするために、もし話を厳密にすれば、貧乏人といえどもむだに物を費やしている場合はあるという事を述べた。しかしどうせ余裕のない彼らの事であるから、むだをしたとて貧乏人のは知れたものである。そこで私は再び金持ちの方に向いて、――あまりくどいので読んでくださるかたもあるまいが――今少し倹約の話を続ける。
昔孔子は富と貴《たっとき》とは人の欲するところなりと言われたが、黄金万能の今日の時勢では、富者すなわち貴人である。されば人の欲するところのもの試みに二個条をあげよと求めらるるならば、今の世の中では、むしろ富に加うるに健康をもってするが適当である。英米両国にては富のことを Wealth と言い、健康のことを Health と言うが、げにこのWとHのついた二個の ealth こそ万人の欲望の集中点で、だれも彼も金持ちになって長生きをしたいと思い煩っているのである。そこで普通の人は、身代は太るほどよく、身体も肥《ふと》るほどよいように思っているけれども、しかしそは大きな間違いで、財産でもからだでもあまり太り過ぎてはどうせろくな事はないのである。
貧乏な上に恐ろしくやせている私がこんな事をいうと、それこそほんとうのやせがまんというものだと笑わるるかたもあろうが、もしそう言わるるならば、しかたがないからめんどうでも統計表を掲げて、私の議論の証拠にする。まず次に掲ぐるところのものは、四十三の米国生命保険会社が一八
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