tランスからもベルギーからも追放されて、ついには英京ロンドンに客死するに至りしところの、世界の浪人にしてかつ世界の学者たるカール・マルクスにその一生をささげ、つぶさに辛酸をなめ尽くしつつ、終始最も善良なる妻として、その遠き祖先の骨を埋めつつある英国に流れ渡り、ついに自身もロンドンの客舎に病死するに至りし人である。前に掲げた手紙もすなわちこのロンドン客寓中《かくぐうちゅう》にしたためたものである。[#地から1字上げ](十二月九日)

       十一の二

 さて私がここにマルクスを持ち出したのは、彼が有名なる唯物史観または経済的社会観という一学説の創設者であるからである。
 彼が一八五九年に公にしたる『経済学批判*』の巻頭には同年二月の日付ある彼の序文があるが、その一節には次のごとく述べてある。
[#ここから1字下げ、折り返して2字下げ]
* Karl Marx, Zur Kritik der politischen Oekonomie.
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから1字下げ]
「余はギゾーのためフランスより追われたるにより、パリーにて始めたる経済上の研究はこれをブリュッセルにおいて継続した。しかして研究の結果、余の到達したる一般的結論にして、すでにこれを得たる後は、常に余が研究の指南車となりしところのものを簡単に言い表わさば次のごとくである。」
「人類はその生活資料の社会的生産のために、一定の、必然的の、彼らの意志より独立したる関係、すなわち彼らの物質的生産力の一定の発展の階段に適応するところの生産関係に入り込むものである。これら生産関係の総和は社会の経済的構造を成すものなるが、これすなわち社会の真実の基礎にして、その基礎の上に法律上及び政治上の上建築が建立され、また社会意識の形態もこれに適応するものである。すなわち物質的生活上の生産方法なるものは、社会的、政治的及び精神的の生活経過をばすべて決定するものである。」
[#ここで字下げ終わり]
 右はマルクスの※[#「敖/耳」、第4水準2−85−13]牙《ごうが》な文章を――しかもわずかにその一節を――直訳したのであるから、これを一読しただけでは充分に彼の意見を了解することは困難であるが、今これを詳しく解説しているいとまはない。それゆえ、しばらくその原文を離れて、簡単に彼の意見の要領を述ぶるならば、これを
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