く旧制を攷《かんが》ふべき也。(老学庵筆記、巻七)
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(四)
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張文昌の成都曲に云ふ、錦江近西煙水緑、新雨山頭茘枝熟、万里橋辺多[#二]酒家[#一]、遊人愛[#下]向[#二]誰家[#一]宿[#上]と。此れ未だ嘗て成都に至らざる者なり。成都には山なし、亦た茘枝なし。蘇黄門の詩に云ふ、蜀中茘枝出[#二]嘉州[#一]、其余及[#レ]眉半有不と。蓋し眉の彭山県(註、成都の南方)、已に茘枝なし、況や成都をや。(老学庵筆記、巻五)
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○以上の四項は、いづれも放翁が如何に実事の追究に徹底的であつたかを示さんがために、写し出したのである。
その雑書と題する詩(剣南詩稿巻五十二)に云ふ、枳籬莎径入[#二]荊扉[#一]、中有[#二]村翁[#一]百結衣、誰識新年歓喜事、一※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]一犬伴[#レ]東帰と。そして自註には※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]犬皆実事としてある。また貧舎写興と題する詩(詩稿巻六十八)に云ふ、粲粲新霜縞[#二]瓦溝[#一]、離離寒菜入[#二]盤羞[#一]、贅童擁[#レ]※[#「竹/彗」、読みは「すい」、489−12]掃[#二]枯葉[#一]、瞶婢挑[#レ]灯縫[#二]破裘[#一]と。そしてこゝにも亦た自ら註して贅瞶皆紀実としてある。彼は自分で詩を作る場合にも、決して好い加減のでたらめを書いては居ないのである。
私は之についてゴルキーを思ひ出さずには居られない。今私の手許にある彼の『文学論』は、十分信頼の出来る訳書だとは思へないが、その中から、彼の見解の一端を見るに足る或る一つの個所を、ここに写し出して見よう。
次の一節は、マルチャノフといふ新人の長編小説『農民』について言つてゐる言葉である。――
「多くの批評家はマルチャノフをひどく称讃してゐるが、私は次のことを言はざるを得ない。即ち彼は才能ある人ではあるが、文学者としては恐ろしく無学であると。その証拠には、二一〇頁に、「ヴラディミル・イリイッチの命によつて、マドヴェイは前世紀の九十八年にペテルブルグからウラル地方へ移り、そこで老ボルシェヴィク親衛兵の戦闘部隊を組織した」などと書いてあるが、しかし九十八年にはヴェ・イリイッチは追放されてゐたので、ペテルブルグには居なかつたのである。ま
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